第2章 騎士の矜持

020.魂が抜けかかった

『いかにも、我はグラネク山の魔の竜。ウィロー・ナ・ムラン・イアディ=マハ・マハジューレ!』

現れたのは、狼ほどの大きさの竜?だった。その竜?の身体は、黒光りする鱗に覆われ翼は厚い。前足には鉤のように鋭く曲がった爪が五爪。足はどっしりと地面を踏みしめ、ふしゅう……と吐く息は焦げ臭く、魔力が満ちていた。だが、竜としては……なんというか、ピウニー卿の記憶にあるそれよりも遥かに小さい。全員がその存在を見下ろせる位に小さい。

竜?は、微妙な空気を読まず、むふうーと鼻から息を吐いた。魔力はとても濃く、油断なら無い脅威なのは分かる。だが恐ろしい雰囲気はなぜか感じられない。本当に、これがオリアーブ国の国王を立ち上がらせ、ピウニー卿の身体を呪った竜なのだろうか。

『ふっふっふっ……驚いて声も出せぬか。……さもありなん。ピウニーよ、そなたのことはずっと見ておったぞ。妙ちくりんな虫を斬ったあの剣筋は見事であったな。しかし、人参のグラッセは半分に分けるべきであった!』

「え……あの」

もはや記憶の彼方にあった人参のグラッセのことを蒸し返され、ピウニー卿の表情がますます微妙なものになった。

『そしてサティよ!』

「あ、え、は、はい」

『そなたは、よくぞ我の名を呼んだ。さすが古の魔法に精通しておる、食えぬ魔法使いよの』

「はあ。まあ」

……確かに、サティはオリアーブ王国に古くから住まう魔物の名や、固有名詞、伝説なども研究の一環に取り入れている。魔竜の名前もそういう伝承によって伝え聞いたものだ。

『そなたが魔力を込めて名を呼んでくれたおかげで、我は剣の形から自分を解放し、こうして元の姿に戻ることが出来たのじゃ。礼を言うぞ』

「元の姿……?」

怪訝そうな声を上げたのは、剣の賢者だ。元の姿……というのはありえない。せめて、この50倍くらいは大きくなければ、元の姿とはいえないことくらい誰にでも分かる。だが、そんなことはお構いなしに、竜?はふんぞり返った。

『そして、そなたは剣の賢者じゃな? 先ほどから聞いておったわ。そなたが作った剣は我の魔力にも耐えうるほど筋のよい剣であった。だからこそ、我は剣が吸った血と魔力に己を閉じ込め、こうして再び大地と森と空の下に、復活することができたのじゃ!!』

グオオオオオン!!

竜?は雄たけびを上げた。天に向かって息を吐けば、それは青い炎のブレスとなって辺りの温度を上昇させた。咄嗟にピウニー卿がサティを背に庇い、剣の賢者が身を低くして、背に負った武器に手を掛ける。その様子を見て、むふん……と竜?は笑った。

『心配せずともよい。……我は、そなたらに害を為そうとは思わぬ』

サティは瞳を凝らした。……自らの内にある魔力に集中し、目の前の竜?の魔力を読んでみようと試みる。竜?の言うとおり、禍々しいものは感じられない。とても猛々しい濃い魔力だが、言い換えれば清浄で力強い。それに……。

「剣に己を閉じ込め……って、どういうこと?」

我に返ったサティの、至極まっとうな質問に、竜?はグオオオオンと再び咆哮を上げた。
そして、呆気に取られている3人に、己の身の上を話し始めたのである。

****

グラネク山に住まう魔竜はもともと、知性の高い存在だった。オリアーブ王国の建国と同じくらい、古くからグラネク山に住まい、大人しく、人に危害を加える事は無かった……という。そもそも魔物という生き物は、一部にはもともと凶暴なものもいるが、動物と同じで、魔力のバランスを崩しさえしなければ、他の生き物になりふり構わぬ害を加えるようなものではない。

魔竜ももちろん例外ではない。そして、知性が高いゆえに、魔力のバランスを崩さぬように生きる術も心得ていた。グラネク山の山頂で、静かに鉱石を食べて生活していたのだ。

だが、ある日、そこに1人の魔法使いが訪ねてきた。

その魔法使いは魔竜が大人しいのをいいことに、この竜に呪いをかけようとした。もちろん魔竜も果敢に応戦し、呪いに抵抗した。だが、最終的には魔法使いが勝利したのだ。なぜならば……。

『彼奴は、我の愛しい眷属達を人質にしたのじゃ……』

「眷属?」

『いかにも。グラネク山に住まうワイバーンや蛇たち。我が魔力を調え、人に害を為さぬよう、グラネク山の魔力の均衡を守るようにしてやったものどもよ。哀れなその子らは、あの魔法使いによって魔力を乱され人を襲うようになった。人であれ何であれ、襲われて戦うのは摂理じゃ。我も文句は言わぬ。だがな……、それがあの魔法使いによって歪められた摂理だと思うと口惜しゅうて……』

サティがピウニー卿の服の裾をぎゅ……と掴む。複雑な思いを抱えたピウニー卿は、声を低くした。

「その、呪いとはどういうものなのだ」

魔竜の話によるとその呪いは、魔力の流れを止めることにより、己の身の魔力の全てを魔竜の意識から切り離す呪いだった。このため、魔竜は自身の魔力を自身で操ることが出来なくなった。

魔竜は「魔」の「竜」だ。魔力と肉体のバランスによって知性を保つ。他の魔物が凶暴化する程度の魔力の乱れならばどうということもないが、魔力そのものの流れが止まれば流石の魔竜の理性も狂った。

魔力のバランスを失った魔物は人を襲う。竜とて、それは同じだ。理性という咎を奪われた魔竜はそれでも、人を襲わぬように己の内で荒れ狂う破壊衝動と戦った。その苦しみは、近隣の村を焼き、旅人を追い払った。最小限の被害に食い止められたのは、魔竜が最後の一線まで己の衝動と戦っていたからだろう。……だが、徐々に疲弊してきた。もう少しで自分の理性は完全に瓦解し、問答無用で国を焼き尽くす竜に成り果てる。そんなときに、ピウニー卿一行がやってきたのだ。

魔竜は歓喜した。

己の苦しみを断ち切る勇敢な人間達がやってきたのだ。これ以上の喜びはなかった。

だが、破壊衝動が収まったわけではない。魔竜とピウニー卿らとの戦いは熾烈を極め、人間の剣は魔竜の血を吸い、人間の身体は魔竜の吐く息で焦げて牙に傷ついた。それでも、最後の決着の付く時が来た。ピウニー卿の剣が魔竜の喉笛を捕らえ、切り裂いたのだ。これで終わる。それぞれの思惑が全く別のものだとしても、戦いに終止符が打たれる。魔竜は安堵して、地面に倒れる。

……しかし、それだけでは終わらなかった。

魔竜の断末魔の咆哮の凄まじさは、己を蝕む呪いを吐き出した。

死の瞬間、その咆哮によってその呪いの楔が吐き出され、周辺の生ける者全てに降りかからんとしたのだ。

いち早くその気配に気付いたのは、ピウニー卿だった。彼は、死の咆哮を上げる魔竜の眼前に剣を構え、竜にも負けぬ雄たけびを上げてその呪いを全て受け止めたのだ。魔竜は死に行く中で、ピウニー卿の意志に気付いた。この男は、他の人間に……生き物に、自分の上げる咆哮が届かぬように受け止めている。

ならば……と、魔竜は、自らの血を吸ったピウニー卿の剣へと己の魔力を全て注ぎ込んだ。己の肉体の一部と魔力さえあれば生き残ることができる。この勇敢な騎士を死なせるには忍びない。魔竜は最低限の力で生き残り、この哀れな騎士を助けようと心に決めた。

耐え切れぬかと思ったその剣は、魔竜の魔力に耐えた。こうして、魔竜はピウニー卿の剣が吸い込んだ血を自分の肉として、……つまり、ピウニー卿の剣を構成する魔力そのものとなって生き延びたのである。

たった一つだけ、予想外のことを残して。

呪いを全て受け止め死んでしまったかと思ったピウニー卿は生きていた。死なば、己と同じように剣に取り込み何らかの機会を与えてやろうと思ったのだが、予想外に、元気に生きていた。

……ネズミの姿で。

『そこで、我は己の姿をネズミの姿に合うように変化させて、この男の側におったのじゃ』

「え」

魔竜はピウニー卿の剣に浸み込んだ血に姿を変えた。そしてその血は剣を構成する素材そのものに溶け込んでいく。血を使って己の姿を戻すには、己の名を知っている人間に呼び戻される必要がある。魔竜の名前は古の魔法語だ。名前そのものが魔竜を留める力で、術式となる。

『剣が無いと困るだろうと思ってな。……サティよ、お主に出会い、その呪いが中途半端に解けたのには驚いたぞ?……おかげで、剣の大きさを調整するのが大変だったが、なかなかに上手くできておっただろう』

「中途半端……?」……と剣の賢者が表情を動かした。サティは久々に呪いを解いたきっかけを思い出して、いたたまれない気分になる。

1人、心が落ち着かない人間が居た。

くかか……と笑う魔竜の言葉に、ピウニー卿は愕然としていた。側に居た……というのはどういうことなのか。この話が本当であれば、今までずっとサティと2人で会話してきた……というより、独り言とかも全部筒抜けだった……ということか。ああ、そういえば人参のグラッセのことを知っていたし、そうなれば、あんなことやこんなことまで知って……いるのか……!?

ピウニー卿の魂が抜けかかった。

『安心せい、ピウニー。そなたのプライベート的なところは、我は見ておらぬ』

「プライベート的な?」

サティがすぐ隣のピウニー卿を見上げる。

ピウニー卿の魂は抜けていた。

『だから見ておらんというのに』

****

「それにしても……私は一体何ということを……」

魔竜の性格はともかくとして、邪悪な存在ではない竜を討伐してしまった……というのは、ピウニー卿に衝撃を与えたようだった。確かに、国の凶悪化した魔物を討伐する任に着いてはいたが、元来正義感の強い男である。害為す魔物は倒してきたが、そうではない魔物には手を出さないように徹底していた。魔竜が呪いによって暴れていたとはいえ、邪悪な存在ではなかったことに強い罪悪感を覚える。魔竜はそんなピウニー卿に、グルル……と吐息を吐いた。

『気に病むな。ピウニー。そなたは我を救ってくれたのじゃ。そなたらが我を倒さなければ、我は人であろうと眷属であろうと、命果てるまで見境無く襲い、燃やし尽くしておったじゃろう』

「しかし……私のせいで、そのような姿になってしまったのではないか?」

『身体が小さいことか?』

魔竜の金色の瞳が細まった。

『ピウニーに相見えたのが我の本性だが、我は魔力を取り戻しさえすれば大きさはいくらでも変えられるわ。幾ばくかの休息は必要だが、剣より復活した今ならばそれほど経たぬ内に戻れる。そなたとて、姿かたちが変わってしまっておるのじゃ。ピウニーよ、もし我に赦しを請いたいというのならば、我らをこのようにした魔法使いを探せ。恨みを晴らし、この炎で骨まで焼き尽くしてくれようぞ!』

魔竜はそういって、グオオオオオオオオオ!……と一際大きな咆哮を上げた。

……魔竜に呪いをかけた魔法使い……。一体誰が何の目的でそのようなことを。それに魔竜の言うことが本当であれば、魔竜の魔力を断絶させた呪いが、ピウニー卿の姿を変えた……ということになる。魔物の理性を狂わせて、人間の姿形を獣に変える呪い。魔力というのは感情や自分の力に密接に関係していて、その関係性はいまだに完全に解けてはいない。

魔力の流れを止めるだけでなく、人としての意識下から切り離す……。人の姿を維持できなくなる……? これは自分達の呪いを解く鍵になるかもしれない。悶々とサティが考え込んでいたが、それを払拭するように剣の賢者が口を挟んだ。

「ああん?……てぇことは、魔竜とピウニーは和解した、ってことになるのかい?」

『それもよかろう。人の子の友ができるというのも、悪くない』

まんざらでもなさそうな魔竜はふしゅうと息を吐いた。やがて魔竜を囲む魔力が濃くなり始める。魔竜はバサリと翼を広げて宙に浮いた。巻き起こる風に、その場の3人が眩しげな表情になる。

『ではさらばじゃ、ピウニー卿、サティ、剣の賢者よ。我の炎が必要であれば、この名を唱えよ』

『ウィロー・ナ・ムラン・イアディ = フロット・フォン・ド・ラーゲ・ベネカ・イェズ・マーレ・マハ・マハジューレ』

『オウィクーブ・オーン・アナクーユ』

魔竜は自らの魔力を呼ぶ名と、その吐息を召喚するための魔法語を唱え、大空へと飛び去って行った。
天を仰いだ剣の賢者が言った。

「長っ」