第2章 騎士の矜持

022.頬に触れた優しい温もり

キィィィキィッィィ!!

ヌエの放つ鳴き声の様相が変わった。恐らく最期の叫び声を上げながら、ヌエは走り始めた。

「やったか……ピウニー?……おい、ピウニー? どこだ、……待て、そっちは……」

剣の賢者の表情が曇る。ヌエの背にさきほどまで見えていたピウニー卿が……居ない。それに気付いた瞬間、剣の賢者の脇を小さな生き物が飛び出した。

「ピウニー!」

「サティ、ダメだ、来るな!」

来るなって言われて誰が躊躇うか、バカピウニー!
サティは、トン……と杖を踏むと、呪文を唱えた。魔力の枯渇など、かまってはいられない。

<エボートトゥ・イラウーフ・オ・アダァーラ・サティ!>
(サティの身体よ、重力から離れ跳躍せよ!)

猫の小さな身体がさらに軽くなり、まっすぐに目的の方向へと跳躍する。目指す方向には、ヌエの身体から落下するピウニー卿だ。

ぱく!

跳躍したサティは、小さなネズミの身体を見事キャッチする。眼下には落下していくヌエの身体。重いヌエの身体は刺さった剣と共にすごいスピードで落下していき、あっというまに崖下へと見えなくなった。

……崖下。

崖下?

「サ……サティ……!」

「…………~~~~~!」

落ちる……。完全に落ちる。いや、もう落ちてる。ゆっくり落ちてる。魔法の力で軽くなっているため、ゆっくり……だけど確実に落ちてる。……やばいやばいやばいやばいやばい、岸に! 岸に到達しなければ!……サティがピウニー卿を咥えたまま、じたばたと(猫だが)犬かきに挑戦した。だが、とても岸には到達できない程度に……落ちていく。ああ、これは……落ちる。全員が認識した、そのときだった。

グオオオオオオオオオオオオオオン!!

巻き起こる突風、満ちた魔力。
比喩表現ではなく地形的な意味で、崖っぷちの剣の賢者の眼前を何かが横切った。この咆哮、この魔力は。

がしっ!

「……魔竜か?」

剣の賢者が眩しげに瞳を細めて、その魔力の源を見定める。剣の賢者の側に降り立ったそれは、前足で掴んだ何かを、よいしょ……と地面に置いてこう言い放った。

『いかにも、我はグラネク山の魔の竜。ウィロー・ナ・ムラン・イアディ=マハ・マハジューレ!』

先ほど聞いたばかりのくだりが再び繰り返される中、足元では、金色のネズミとセピア色の猫が毛皮を膨らませてゼエハアと息をしていた。
それを見ながら剣の賢者が思わず言った。

「戻ってくるの早っ!」

……いや、ありがたいけど!

****

「……魔、魔竜、助かった。礼を言う」

魔竜はやはり狼程度の大きさだった。魔竜はふしゅうと鼻息を吐く。ニマリと瞳を細くした。

『礼には及ばぬ。山へ帰ろうかと思ったのじゃが、伝え忘れたことがあってな。サティは大丈夫か?』

「サティ!」

ふんぞり返った魔竜の言葉はほぼ聞かず、ピウニー卿はぐったりとしているサティの側に駆け寄った。その顔の毛皮にそっと手を埋めて撫でてやる。

「サティ、大丈夫か?」

「う、ん……大丈夫」

「……理のじーさんの杖みたいな、変態杖使うからだよ、ったく……。それにしても、あー……本当に猫とネズミになるんだね。可愛いもんだ」

弱々しく返事をしたサティの背を、剣の賢者が撫でる。こげ茶色の丸い瞳で剣の賢者を見上げるピウニー卿に、剣の賢者は頷いた。

「魔力使いすぎたんだよ。家で少し休んで行きな。ピウニー、あんたの剣もどうにかしないとね」

「しかし、杖の賢者のところに行かねば」

「ああ、それなら……」

「ピウ……?」

剣の賢者が何かを言いかけたが、自分を呼ぶ弱々しい切なげな声にピウニー卿は顔を摺り寄せた。

「どうしたサティ」

「……を」

「なんだ?」

「ヌエが雷落としたときにトネリコ割れたからそれを……」

「ああ、分かった……おい、サティ、大丈夫か? サティ?」

グリーンの瞳を閉じて、耳がしょんぼりと寝てしまったサティをそっと揺する。気を失ってしまったようだ。ピウニー卿はサティの口元をぽんぽん……と小さく叩いて、剣の賢者を振り返った。

「剣の賢者殿……」

「ああ、心得た。ちょっと待ってな」

剣の賢者は立ち上がり、先ほどまで自分達が戦っていたところへと去っていった。それを見送りながら、ピウニー卿はサティの喉元のふわふわした毛皮を撫でている。

『ところで、我の話をしてもよいか?』

魔竜は竜ゆえに、空気が読めなかった。

****

「あんた!……今帰ったよ!」

「……!」

サティの身体を抱え、ピウニー卿を肩に乗せた剣の賢者は真っ直ぐに杖の賢者の館に帰っていった。途中、シャドウメアを拾い、魔竜を連れての登場にも相変わらず杖の賢者は無表情だ。剣の賢者は魔竜の前足にサティを預け、肩のピウニー卿を摘んでその上に置くと、杖の賢者へと抱きついた。杖の賢者は剣の賢者を抱き寄せ、くるくる巻いた亜麻色の髪を愛しげに撫でている。

「……え?」

その様子にピウニー卿の髭がピーンと張った。確か、サティが「杖の賢者は奥方がいる」と言っていなかっただろうか。……ということは、

「もう知ってると思うけど、あたしの旦那の杖の賢者だよ」

剣の賢者は、幸せそうに笑った。

****

シーツを掛けられてすこやかに眠っている猫の口元に、ネズミが顔を寄せている。
次の瞬間、ピウニー卿の目の前に、人の姿に戻り、長い睫を伏せて眠るサティの顔があった。

あれからサティはずっと眠っている。体力が落ちているだけだ、少し眠ればすぐに回復する、心配ないと剣の賢者は言っていたが、それでもピウニー卿は心配で目が離せずにいた。どのみちネズミの姿で出来ることは少ない。人間に戻ることが出来るまで側に居ていいと言われたので、遠慮なくサティの側に居た。眠っているサティの顔を見ているのは猫であっても飽きなかったし、柔らかな毛皮に触れていれば、生きていることを実感できて安心する。

そして、今、ピウニー卿は眠っているサティを人の姿に戻した。

人の姿に戻った瞬間は唇が触れ合うほど近い。今はピウニー卿も人の姿を為している。少し顔をずらせば、恐らくそのまま触れることが出来るだろう。今ならば、手を伸ばせば肩を包み込むこともできる。髪を梳くことも、その細い身体を自分の胸に抱き寄せることも。

ピウニー卿はとうの昔から、自分の気持ちを自覚していた。

彼とて年端もいかぬ若者……というわけではないのだ。何も身に着けていない女が現れても、激しく欲情することなどは無い。最初から自分の心がこうも浮つくのは、この小柄で、生意気で、そのくせ無防備な表情を見せる情の厚い可愛い猫が相手だからだ。サティと共に過ごすようになってから、その肌に口付けたいと思ったことは1度や2度では無い。幾度か抱き寄せたこともあるが、戸惑ったような付かず離れずの態度を取るサティがもどかしく、騎士としての矜持と男の理性がその先に進むことを戒めた。

だが、ピウニー卿とて男だ。愛しい女が裸で抱きついてくればどうなるか。他の男に触れられれば嫉妬もする。その頬を撫でたい、唇に触れたい、抱き寄せたい……と思うのは当たり前のことだった。だからこそ、ピウニー卿は人の姿に戻るときはいつもサティに、シーツで身体を巻いてからにするよう念を押していた。布越しに伝わる身体の曲線だけでも危ういのに、ああ何度も裸で抱きついてこられると、いつ自分の理性が飛ぶか分からない。

サティが過剰な魔力を使って無茶をしたのはピウニー卿のためだ。ヌエから振り落とされた小さなネズミを助けるため。ピウニー卿は心底、早く人間の姿に戻りたかった。戻ればサティを守ってやれる。サティを抱き寄せて、この腕で運ぶことができるのに。……もっとも、サティは守られるだけでよしとする女性ではないだろう。だが、そういうところもピウニー卿を惹きつけて止まない。サティを守りたいと思う反面、彼女の魔法を信頼して共に行動することに喜びを感じてもいた。

「サティ」

小さく名前を呼んでみる。ピウニー卿はサティの傍らに肘を付き、セピア色の髪をそっと梳いた。しばらくそうしていたが、やがて軽く息を吐いて身体を起こした。サティの身体に体重を掛けないようにそっと近づき、遠慮がちに頬に口付けを落とす。口付けた箇所を指で撫ぜると肩まで落ちていたシーツを掛けてやり、寝台から降りた。杖の賢者に借り受けた服を着て身を調えると、静かに部屋を後にする。

………………。

パタン……と閉じた扉の音を確認して、サティはそっと瞳を開いた。

自分はどうやら体力を使いすぎて、眠っていたようだ。……自分の魔力を大幅に超過して体力を使い、そのまま倒れてしまうことは、魔法を使い始めた頃によくあった。

気が付くと……自分は人間に戻っているようだった。意識はあるが身体の自由が利かないのは、恐らく体力がまだ完全に戻っていないからだろう。

先ほど、ピウニー卿の低い声が耳をくすぐったのを思い出した。名前を呼ばれたときから、……サティは起きていたのだ。ピウニー卿の、小さいけれど熱い声になんとなく瞼を開くことができず、眠ったフリをしてしまった。

ピウニー卿の手が髪を一筋梳くたびに指が耳と首筋を心地よく滑っていく感触と、髪を梳く手が止まってサティの頬に無精髭と熱い唇が触れた温度。たったそれだけのことなのに胸が疼く。

サティは枕に顔を埋めた。

自分はきっと体力が落ちて弱気になっているのだ。

そうでなければ、頬に触れた優しい温もりが名残惜しくて切なくて、涙が出そうな理由が分からない。

****

ピウニー卿が居間に戻ると、魔竜の身体を検分していた剣の賢者が振り向いた。

杖の賢者と剣の賢者が夫婦だったというのを知ったのは、こちらに戻ってきてからだ。理の賢者は当然知っているだろうから、サティも同様だろう。剣の賢者には確か弟子があったはずだ。弟子には、以前の剣の賢者の館を守らせ、自分は杖の賢者の館で暮らしているということだった。こちらの館にも自分専用の鍛冶場を作っている。

「やあピウニー、休めたかい?」

「何もせずに、申し訳ない。それに、借り受けた剣はヌエと共に崖に落ちてしまいました……」

剣の賢者はピウニー卿の神妙な言葉を聞いて、大きく笑った。

「なに、あれはいいんだよ。そんなことよりも、あんたらが無事でよかった。ああ……それにしても、ネズミの姿も可愛かったのに残念さね。……サティは?」

「まだ眠っています。剣の賢者殿。頼みがあります」

ピウニー卿は剣の賢者の側に来ると、深く、騎士の一礼を取る。剣の賢者は心得たように、頷いた。

「……剣を作って欲しい、ってんだろ?」

「ええ」

「顔をあげな。心配しなくってもかまわない。……あたしが作る剣は、生涯保証付きなんだよ。あんたに頼まれなくても、ちゃんと作ってやるさ」

「かたじけない……」

「その代わりさ、今度はちーっと実験させてもらおうかと思っててね」

「実験?」

『我の鱗で刀身を造り、我の炎で鍛えるのじゃ』

ピウニー卿の一言には、魔竜が答えた。魔竜が戻ってきた用件……というのは、ピウニー卿の剣を紛失してしまったことだという。剣の賢者に、自分の鱗を使ってピウニー卿の剣を作ってみよ……という提案をするために戻ってきたのだ。もちろん断る理由など無い剣の賢者はそれを受け、魔竜の鱗を調べていた。

「そ。……ついでに、魔竜の牙で柄を作り、その血を魔力として注ぐ。……マハ・マハジューレの剣が出来るってわけさ」

竜の鱗で剣を作る……?そんなことが出来るのだろうか。その疑問をピウニー卿が口にすると、魔竜はふふん……と息を吐いた。

『我の鱗の一部はグラネク山の黒鋼石を取り込んで出来ておるのじゃ。だから黒光しておるだろう。合金を作るには申し分ない素材ぞ?』

「それはありがたい……が、牙は? 血は?……己を傷つけるような真似をするな」

ピウニー卿のその言葉に、魔竜は再びふしゅふしゅ……と息を吐いた。どうやら笑ったようだ。

『問題ないぞ。……それにほれ、もう抜いてある』

魔竜は何故か自慢げにテーブルの上を顎で指した。そこには竜の牙と瓶に入った数滴の血が置かれている。すぐ側には綺麗な黒い艶の丸い板のようなものがあり、これが竜の鱗であろうことはすぐ知れた。鱗はどうやって剥いだのだろうか。痛くは無かったのだろうか。

ピウニー卿が魔竜にちらりと視線を向けると、その顔は竜であるために読めないが、得意げに鼻息を吐いた。

『抜いたのは親不知じゃから心配ないわ。……ま、さっき外に転がっている石を喰らったときに折れただけじゃがな』

ああ、竜にも親不知があるのか……。どこで役に立つか分からない豆知識をピウニー卿は得た。

****

杖と剣の2人の賢者が住まう館を伺う、1人の騎士がいた。すこし垂れ目気味の甘い瞳。蜂蜜色の髪の毛。軽薄そうなその顔には、目的のものを見つけた喜びに小さく笑みを刷いていた。いままで不確定だったものが、確定に変わる喜び。自らの予測は外れていなかった。むしろ、正しかったのだろう。

「思ったとおりです。きっと本物でしょうね」

騎士は1人、にっこりと笑った。

「竜殺しの騎士、ピウニーア・アルザス殿」