第2章 騎士の矜持

[小話] ヴィルレー公爵の場合

「やあ、ヴィルレー公爵。今日は授業が無かったはずだけれど?」

「ジョシュ殿下。お体の調子はよいのですか?」

「うん。今日は随分いいんだ」

ヴィルレー公爵。アンヘル・ヴィルレーは、国王の用で王宮に出向いていた。王宮まで来たのなら、ついでに王子のところにも寄ってやってくれと国王に請われ、ジョシュの部屋へと向かう途中、中庭に面した渡り廊下で本人と鉢合わせたのだ。ジョシュの後ろには、ペルセニーアが控えている。

「陛下のところに寄っておりました。殿下にお会いできる許可を得まして、こうして」

「許可?父上が?」

……ジョシュは苦笑して、困ったように頷いた。

国王はあまりジョシュに会おうとはしない。この身体の弱い王子をどう扱っていいのか、分からないのだろう。有能であるのに身体が弱いため重用することもできず、剣や魔法を持たせてやることもできない。国王という人間が王太子という人間に与えることの出来る何もかもを、ジョシュに与えることができない。それを国王は苦悩しているようだった。

それならば、ただ親の愛情を与えればいいものを……。アンヘルは、国王がこの聡明な王太子を誰よりも大切に思っていることを知っているが、ジョシュは国王と会えないことを誤解しているようだった。王族という家族に、愛情の行き違いやすれ違いが起こるのはよくある話だ。

ジョシュは苦笑を、穏やかな微笑みに変えてアンヘルを見上げた。

「よければお茶にしよう。セラフィーナは元気?」

「ええ。また連れてきましょう」

「是非そうして。ペルセ、君も一緒に休憩しよう」

主の邪魔をしないように静かに控えていたペルセニーアをジョシュは振り返り、一緒に来るように促した。ジョシュの笑顔を受けて、ペルセニーアは一礼した。

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「サティは元気だろうか」

ジョシュの部屋で軽く話をしたあと、アンヘルは部屋を辞してペルセニーアと共に廊下を歩いていた。丁度、ペルセニーアの交代の時間に当たったので、アンヘルが誘って並んで王宮を歩いていたのだ。

「セラフィーナが寂しがっている」

アンヘルは小さく笑って、ペルセニーアを伺った。アンヘルの笑顔に答えるように、ペルセニーアも頷いた。

「先日、杖の賢者殿から連絡が」

「ほう、それは本当かい?」

「ええ。サティが到着した、と」

「そうか。それはよかった」

ペルセニーアの実家であるアルザス家に、先日手紙が届いたという。差し出し人は、剣の賢者と杖の賢者の連名。サティは賢者に無事に会うことが出来たようだった。

それを聞いたアンヘルは端整な顔を嬉しそうに崩し、何度か頷く。

ヴィルレー公爵家で一晩預かった猫のサティは、あれからアルザス家の保護の下、無事に旅に出たようだった。理の賢者の弟子であるという猫に、どのような旅路を用意したのか……とか、なぜ頑なにアルザス家がサティの世話をしようとしているか……など、聞いてみたいことは多くあったが、アンヘルはその事情をほとんど聞かなかった。

ペルセニーアは何かを伏せているようであり、アンヘル自身もそれを察したが、それは恐らくペルセニーアの個人的なところにも抵触するだろうと思ったからだ。いつか話して欲しいと思いながらも、今はまだ、踏み込めるほどの仲ではない。

ただ、ペルセニーアはセラフィーナが寂しがっている……という話を聞いて、気を使ったようだ。確かに、サティは無事だと知れば、自分の娘は喜ぶに違いない。

「セラフィーナ嬢に、サティは無事です……と、お伝えください」

「ああ。……きっと喜ぶだろう。……あ」

アンヘルが突然何かを思い出したように、コホンと咳払いした。足を止める。すると、ペルセニーアもつられた様に足を止めた。

「もしよかったら、……その、貴女から話して聞かせてやってくれないだろうか」

「え?」

思いがけない言葉を聞いたように、ペルセニーアが首をかしげた。

「……セラフィーナのことなんだが」

「セラフィーナ嬢が何か?」

「もうすぐその……、あの子の誕生日でね」

「まあ、おめでとうございます」

「ああ、ありがとう。……それで、毎年家人だけで祝いをしていたのだが」

「ええ」

「その……」

いつも落ち着いているアンヘルだったが、今は照れたような表情を浮かべてペルセニーアに向き合った。

「今年は……貴女にも来てもらいたいのだが」

「私に……ですか?」

「ああ。ダメだろうか」

ペルセニーアが、アンヘルのことを見つめている。
濃紺の騎士服に、黒い飾り紐は黒翼騎士団の証だ。金茶色の髪は緩くまとめて前に垂らしていた。

少しの間、2人の視線が絡んだ。それほど間を置かず、ペルセニーアの顔が綻ぶ。普段は凛々しい振る舞いと表情で、女性ながら侍女達にもひそかな人気のペルセニーアだが、このように笑うと、女性らしいとても柔らかな雰囲気になる。凛々しい表情からこの笑顔に移り変わる瞬間を見るのが、アンヘルはとても好きだった。

妻に先立たれて6年になる。公爵家の長子として決められた婚約者、定められた相手ではあった。燃えるように求める感情は無かったが、妻として誠実に愛して子を生した人だ。その妻に死なれてからというもの、いまだ若く紳士的な容姿も手伝って、ヴィルレー公アンヘルの元にはひっきりなしに縁談の話が沸いている。

だが、そのどれもがアンヘルにとってはわずらわしいだけだった。どの縁談も、アンヘルの公爵という地位だけを求めている人間達にほかならない。それは貴族の社会における振る舞いとして、間違っているわけではないだろう。……だが、公爵だというだけで、望まない婚姻を押し付けられるくらいならこのまま独身でいたほうが気が休まる。

誰か特別に思いを寄せた相手がいるかというと、それも無かった。互いに定められた相手を愛することしか許されなかった妻を差し置いて、妻が死んだからといって、自由に誰かを求めることが後ろめたいという気持ちもあったのだ。誰かを愛するなどという感情は諦めるべきなのだろう、そう思っていた。

だが。

「喜んで、お伺いします」

ペルセニーアが、アンヘルに向けた柔らかな笑顔をいつもの慎ましい遠慮がちな表情に戻して、礼儀正しく頷いた。それがアンヘルには名残惜しい。

「ありがとう、フィーナも喜ぶ」

彼女と親しく言葉を交わすようになってから、アンヘルの心に暖かく灯る小さな光。それはまだ、誰にも言えぬほどの小さなものだった。遠く若い時分に公爵家の長子として諦めていた感情、後ろめたさから仕舞い込んでいた気持ちの類だ。アンヘルには想像できる。

そう遠くない未来、この暖かさはやがて大きく心を満たすようになるだろう。今はまだ、その笑顔が自分にではなくセラフィーナに向けられるものだとしても構わない。いつか、その笑顔が自分にも……、向けられるようになってくれるだろうか。そして、自分はそれを求めてもよいだろうか。

騎士団の詰め所に足を向けるペルセニーアと、王宮の正面へと向かうアンヘルはここでお別れだ。

「ペルセ、貴女が来てくれると、私も嬉しい」

「え?」

「ではここで、ペルセニーア」

アンヘルは見事な一礼を施した。慌てたようにペルセニーアも騎士の礼を取る。

王宮の門へと歩みを進めながら、さりげなく、ペルセニーアを愛称で呼ぶことに成功したアンヘルは自分の顔が緩むのを自覚した。ペルセニーアが来ると知れば娘は喜ぶだろう。だがそれ以上に、アンヘル自身も楽しみなのだ。

そんなアンヘルの後姿をしばらく見送っていたペルセニーアが、ほんの僅かに頬を染めてうつむいた。