ヴェルレーン・サテュルニアからの情報を得て、1日ほど経た。人間に戻ったピウニー卿が剣を装備し、さらにネズミに戻ったときにその大きさがネズミのサイズに切り替わる仕様を確認した魔竜は、再び空へと舞い上がった。正常な魔力の自分が戻れば、グラネク山の眷属達も徐々におとなしくなるだろうということだ。
ちなみに魔竜の鱗は想像以上に柔軟で、短剣も長剣も安定してピウニー卿のサイズに合わせる。律儀にベルトまで。一体どのような仕組みになっているのか、サティは興味津々だったが、剣の賢者は教えてはくれなかった。
魔竜は去り際に、今は猫の姿を取っているサティに頭を摺り寄せた。随分と心を許したように見える。
『サティよ、もう一度我が名を呼んでくれまいか』
魔竜と見詰め合うグリーンの瞳は大きく、横から見ると、猫のそれでも宝石のように綺麗だとピウニー卿は見惚れた。サティは耳をぴんと前に向け、背を伸ばして尻尾を揺らし、新しい杖を前足で踏むと、こう唱える。
<ウィロー・ナ・ムラン・イアディ = フロット・フォン・ド・ラーゲ・ベネカ・イェズ・マーレ・マハ・マハジューレ>
(大いなる翼の竜。艶めく黒鱗の竜。偉大なる魔の竜。マハ・マハジューレ)
その全ては魔法語で構成されているのだ。改めて、偉大な存在の名前なのだという真実がピウニー卿の胸に沁みる。そして、サティが……この魔法使いがその名を口にすると、清冽で力強い魔力が辺りに満ちるのが分かった。
狼程度の大きさといえど、魔竜が去ってしまうとなんだか部屋が広く感じる。だが、そんな風に思える時間も一瞬だった。
魔竜が去った直後。
サティとピウニー卿が理の賢者の元へと旅立つ準備を行っていると、剣と杖の賢者のに、もう1人の客人が訪ねてきたのだ。
****
「……サティ」
ピウニー卿の下には、裸の身体をシーツでくるんだだけのサティが居た。人間に戻るとき、いつもは体格差からいってピウニー卿が下でサティが上になるのだが、今日は無理矢理ピウニー卿がサティの顔を登って口元をぺろりと舐めたのだ。ピウニー卿はサティの身体には触れないように、両脇に腕を付いている。
サティの瞳は驚いたようにピウニー卿を見つめている。その頬をピウニー卿はそっと撫でた。
「ピウ?……あの、退いて?」
「……」
自分の頬に触れるピウニー卿の手は広くてごつごつしている。剣を握っているからだろう。いつもとは少し違うピウニー卿に、サティは動揺を悟られないように努めて冷静に首を傾げた。それでも、頬を撫でているピウニー卿の手が思いのほか心地よく、こげ茶色の瞳がうっとりと優しく、心地よいのに心は騒いで目を瞑ってしまいそうだ。
「あの……」
ピウニー卿の足が、サティの足に絡まった。シーツ越しといえども、互いの身体のラインははっきりと分かる。ピウニー卿のむき出しの肩は硬く、サティの首筋は細く柔らかそうだ。
「サティ」
自分を呼ぶその声には、はっきりと感情が込められている。サティには分かった。ピウニー卿の顔が降りてくる。
「……ピウニ……」
コンコン
バーン!
……まさかとは思ったが、ノックと同時に扉が開く。
「……ピウニー卿、大変です……外に……!……うわっ……なっ……を、……こ、こここここれは、し、失礼しました」
バーン!
扉が閉まった。
「………………」
「………………」
ピウニー卿の唇がサティに触れるか触れないかのところで止まっている。少し腕を曲げれば触れられる……が、これ以上進むと収まりが付くか自信が無い。
「くそっ……ヴェルレーン……覚えていろ……」
ヴェルレーン・サテュルニアは異常に間が悪い男であった。
****
「ああん……、最近は客人が多いねえ……ったく」
目の前に座っている客人に、剣の賢者は不機嫌そうに頬杖を付いた。杖の賢者は剣の賢者の隣に寄り添うように座り、相変わらず無言。そして、客人も無言だ。短い黒髪に瞳も黒。無駄の無い引き締まった身体には、簡易的な鎧を身に着け、マントを羽織った姿は旅装と一目で分かった。
3人がいる部屋の扉が開き、蜂蜜色の髪の騎士が溜息を付きながら入ってくる。その軽薄そうな雰囲気は悪気が無く、部屋に張り詰めた緊張感を少し緩める効果があった。ああ、こんな男でも役に立つんだねと剣の賢者は、割りとどうでもいい方向で見直した。
「ヴェルレーン、2人は?」
「ち、ちがうんですよ、猫とネズミかと思って不可抗力ですよ決して邪魔しようと思ったわけでは……!」
「何の話だい」
「こほん。お2人は、その、……取り込み中です」
「取り込み中?」
「ちょっといろいろ事情がありまして。……そうか、サティさんは……2人は……ああ……!」
ため息をついてヴェルレーンは蜂蜜色の頭を振る。脳裏に浮かぶのは寝台で絡み合っていた(ように見えた)サティとピウニー卿の姿。親しげに触れ合っていた(ように見えた)2人を見れば、その関係がただならぬものであるというのは一目で知れる。そうか……猫とネズミといえど、1日の3分の1は人間に戻るのだ。その間に愛を育んでいたとしてもおかしくはない。
だが、致し方ない。運命。これも運命か……。いずれにせよ、(猫アレルギーの)自分は(猫の)サティの身体に触れることは叶わない。お似合いです……お似合いです、お2人とも。祝福しましょう。友人として、2人のことを!
このとき、ヴェルレーンは完全に客人のことを忘れていた。
「ちょっとヴェルレーン!」
「あ、はい」
「何、半笑いでボーっとしてるのさ。2人がどうしたって?」
「事情がありまして」
「だから、事情って何さね」
「ですから……」
ゴン!
「あだっ……!」
そのとき、ヴェルレーンが入ってきた扉が再び開き、丁度前に控えていた蜂蜜色を直撃した。「うぐぅ……」悲痛なうめき声と共に、ヴェルレーンは後頭部を押さえてしゃがみこんだ。
「……誰が何の事情だと……?」
扉から出てきたのは、これまでに無いほどの怒りのオーラを噴出しているピウニー卿だった。客人が顔を上げ、その姿を一瞥する。口元を歪め、どうやら笑ったようだ。
「……やはり生きていたのだな、ピウニーア・アルザス」
「……貴公は……ラディゲ……?」
ラディゲ・ラファイエット。ピウニー卿は、久方ぶりに見る騎士……かつて共に戦った男の顔を見つめ返した。
「ピウニー……?」
客人というのは誰なのか……と、後ろから顔を出したサティをピウニー卿は無意識に背に押しやる。一触即発の部屋の空気は重苦しく、訳も無く緊張感が漂っている。
ピウニー卿は今、
極めて不機嫌だった(八つ当たり的な)。
そして。
「……ちょっと、ピウニー卿、急に扉開くこと無いじゃないですか!……しかも、なんでそんなに怒って……ちょっと、サティさんも何か言ってください!」
しつこいようだが、ヴェルレーン・サテュルニアは間の悪い男だった。だが、この間の悪さが、今は救いだ。それは無意味に緊張感の上がった室内を、程よく解す効果があった。剣の賢者は溜息をついてラディゲを一瞥する。
「ラディゲとやら?……人ん家で無闇に殺気放出してんじゃないよ、……とりあえず、あんたの事情から聞こうじゃないか」
室内の全員が、客人……ラディゲに目を向けた。その視線を受けながら、ラディゲが見つめるのはただピウニー卿一点だ。口を開いた。
「……竜殺しの美談が笑わせる。……ピウニーア、生きているのであれば真っ先に陛下に状況を報告するのが筋だろうに、こんなところで女遊びか」
「なんだと……?」
投げられた言葉に、ただでさえ底辺だったピウニー卿の気配が、さらに低くなる。片方の眉をぴくりと上げ、重く渋い声は一言だったが怒りを孕んでいた。ピウニー卿の片方の手はサティを庇ったままで、その背中はいつも通り大きかったが、こんなにも怒っているピウニー卿は初めて見る。ただ、「女遊び」という一言が引っかかり、声をかけることも腕を掴むことも、サティには出来なかった。
「竜殺しの騎士はお前だ、ピウニーア。本懐を果たして生きているのであれば、忠義を尽くすのが騎士の務めだろう。にも関わらず、なぜ姿を消した」
「なぜそれをお前が問う」
「なぜだと……?……我らは共に戦った。魔竜を倒し、勝利した。名誉なことではないのか!」
「……」
ラディゲがいつの間にか立ち上がり、ピウニー卿の目の前に居た。今にも掴みかからんばかりだ。杖の賢者も立ち上がって、剣の賢者を後ろに庇っている。
「その名誉だけを得て、生き残った者に脇役を押し付け、お前は死んで英雄気取りか」
ピウニー卿はそれには返事をしなかった。答えないピウニー卿に苛立ちを隠せないラディゲは、吐き棄てるように言った。
「言い訳も無いと見える」
「ラディゲ」
「……なんだ」
イライラしているラディゲに対して、ピウニー卿は静かなものだった。怒りはすでに平坦に収まっているようで、まっすぐにラディゲに向かって問いかける。
「なぜ、私を追いかける」
「……親衛隊や陛下が必要としているのはお前だからだ、ピウニーア!……生き残った俺ではなく、死んだお前が生きていればと、どれほど言われたかお前に分かるか!」
ピウニー卿の端正な横顔が、僅かに苦しげに潜められた。
「死んだ人間は超えられん。……竜に勝利したのはお前だけではないというのに、賛美されるのはピウニーア、お前だけだ。この違いはなんだ!……挙句の果てに、ピウニーアが庇っている間、お前たちは何もしなかったのかと責められ、計画書を提出したのは自分なのにのうのうと生き残ったのかと罵られ……!」
計画書を提出した……という言葉に、ずっと考え込んでいたヴェルレーンが顔を上げた。すると、ラディゲがピウニー卿に掴みかかったのが視界に入る。ヴェルレーンは咄嗟にラディゲを押さえるが、それを意に介さずに言葉を叩きつけた。
「……それなのに、本当はお前が生きているというではないか。生きているならばなぜ出てこない!……騎士として、なぜ忠義を示さないのだ、出来ることをなぜしない!」
「……すまない」
「なんだと?」
「今の私では忠義を示すことは出来ない」
「なぜだ」
「……」
「答えろ、ピウニーア!」
ピウニー卿は答えるのを躊躇った。躊躇った、その一瞬をラディゲは見逃さない。押さえるヴェルレーンの手を振り切って、ピウニー卿の顔を殴ったのだ。殴られる一瞬に身を引いたのだろう。それほど大きく後退はしなかったが、唇が切れて血が出るには十分だった。
「……ピウニー!」
「下がっていろ、サティ」
「でも」
「サティには関係ない」
「だけど……」
「関係ないと言っているだろう!下がっていろ!」
「……」
前に出ようとしたサティの腕を、思いのほか強い力でピウニー卿は引いた。初めて怒鳴られた。さらに「関係ない」という言葉で追い討ちをかけられ、それ以上の言葉を遮られる。ラディゲが冷たくサティを一瞥して、すぐにピウニー卿へと視線を戻した。
「女にうつつでも抜かしたか」
「……―――――」
ラディゲの言葉に、小さく笑ってピウニー卿が何かを言ったようだ。室内の全員が驚いたような雰囲気で、ピウニー卿を見ている。だが、サティには何と言っているのか聞こえなかった。全く別のことを考えていて。
「関係ない」……という、……その言葉は、思いのほか、サティにとって衝撃だった。
というか、カチンと来た。
ああ、関係ないのか。ピウニー卿にとって、自分は。
確かに関係ない。ラディゲという人をサティは知らないし、ピウニー卿が騎士として活躍していた話を知らないし、騎士団の事情も知らないし、そもそもピウニー卿の任務にも騎士の務めにも自分は、……無関係だ。
でも違う。
関係無いというのは、きっと違う。
……この、馬鹿ピウニー。
「……誰が関係ないって? この馬鹿ネズミ」
「え?」
「は……?」
自分の喉からよくもこんな声が出るなと思うほど、低い声がサティから出た。ただならぬ雰囲気に、ピウニー卿がサティを振り向く。ラディゲですら、驚いてサティを注視した。サティはピウニー卿の胸倉を、ラディゲから奪って両手で掴んだ。
「騎士団云々なんて関係ないわよ」
「サ、サティ?」
ピウニー卿が怯んだように一歩下がる。
「私はピウが殴られたのが、気に食わないのよ」
じろりとピウニー卿を見上げるグリーンの瞳は半眼で、その強い力に気圧される。同時に、言われた一言に年甲斐もなくドキリと心臓が跳ね上がった。
「それともピウは私が殴られても関係ないって言うの?」
「そんなわけが……」
「ならば言い訳はよろしい!」
ぴしゃりと言われて、サティの肩を抱こうとしていたピウニー卿の手が中途半端で止まる。
「そもそも、関係ないって言われて私が引き下がると思ってんの?」
「……サ」
「ねえ関係ないの? そうなの、関係ないの。そうよね、ピウニー卿は伯爵家の長男だし、竜殺しの騎士様だし、王様の親衛隊だし、比べて私はなーんの身分も無いしがない頼りない魔法使いですし」
「そうではない!」
「じゃあなんなのよ、関係なくて悪かったわね!」
……部屋の雰囲気が微妙なものになってくる。ラディゲは今までの怒気を完全に削がれているし、ヴェルレーンはラディゲを押さえたまま固まっている。剣の賢者は何故か1人ニヤニヤと笑って楽しそうな顔をしており、杖の賢者はいつもと変わらなかった。
「これは俺とラディゲの問題であって、」
「分かってるわよ」
「ならば」
「でも、ピウだけの問題じゃないじゃない!」
ぎり……とさらに一歩近づく。
「呪いがかかってるのはピウニーだけじゃないでしょう!」
「そ、それは……」
「貴方が出て行けないのは呪いのせいでしょう!それで、その……その、呪いは……2人で解いたんだから……」
「サティ……」
サティの顔が赤くなった。言ってしまった後ですぐに後悔する。
それでも、呪いが中途半端に解けたのは気持ちが中途半端だったからだ……とサティは思っている。当時の自分にそれができたかどうかは分からないが、もっともっと真剣に、ピウニー卿に元に戻って欲しいとか……そういう風に願っていれば、きちんと戻ったかもしれない。そうすれば、国王の下にすぐに馳せ参じることだって出来たはずだ。
その言葉を聞いて、ピウニー卿はサティの身体を抱き寄せた。
関係ないと言ったのは、名誉や忠義というものにしがみついてしまう青臭い男の争いを、サティに見られたくなかったからだった。呪いの話をラディゲにするのは、あまりにも言い訳じみていて躊躇ったのも事実である。それに、……ラディゲに関わらせたくないあまり、つい感情的になってしまった。
……それなのに何故こんな話になっているのだろう。サティは何故怒っているのだろう。自分が殴られたからだろうか。呪いを解くことが出来なかった互いの、……当時の、2人の気持ちに、だろうか。そんなことを言われると、自分の気持ちなどとうに決まっているピウニー卿は、自惚れてしまう。無理矢理にでも、距離を詰めたくなってしまう。
……。
ところで、目の前で繰り広げられているピウニー卿と女のどう見ても甘い攻防に、ラディゲが若干青筋を立てながらヴェルレーンに聞いた。
「……おい、なんなんだこの夫婦漫才は」
「知りませんよ、僕が聞きたいです。そもそも貴方のせいでしょう」
「なぜ、俺のせいになる!」
「貴方が話を聞かないからですよ!」
「ピウニーアが話をしないからだろう」
「言い訳をするような御仁ではないでしょう」
「そもそも呪いとは何なのだ。俺は知らんぞ!」
そこまでヴェルレーンと会話したところで、2人は杖の賢者に首根っこを捕まれ後ろに下げられた。一方、サティはピウニー卿に抱きしめられたままの状態で、何とか引き剥がそうと奮闘している。
「ちょ、と、そういうので誤魔化さないでよ」
「誤魔化してなどおらん」
「じゃあ何なの離して」
「すまない」
「何がよ」
「すまなかった」
「だから、なーにーがー……」
「あー、ちょっといいかい」
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
2人の夫婦漫才に入り難そうに、剣の賢者が咳払いした。
ピウニー卿とサティは我に返る。
「あのさ、お取り込み中すまないんだけど、ラディゲが何か言いたそうなんだよね」
剣の賢者がラディゲを振り向く。……急に話を振られ、全員に注目されたラディゲは不機嫌そうに息を吐いた。
「馬鹿ネズミ……とは一体なんのことだ」
そこかよ!
非常に明瞭、かつ的確な問いに、サティの頭が急速に冷えた。
カッとなってつい、いろんなことを言ってしまった。ピウニー卿を責めたって、仕方が無いことまで勢いで……。
サティの頭が冷えた代わりに、顔が熱くなった。