第2章 騎士の矜持

026.好きな女の濡れた唇

最早、何回目になるのか……という状況の説明を、ラディゲに行った。ピウニー卿とサティの呪い(しつこいようだが口元ペロリについては省略)。そして、話が魔竜の呪いの話に至ると、ラディゲの顔色が変わる。

「……善良な竜だっただと……!?」

「そうだ。……やはり、……知らなかったのか?」

「知っていたら、あんな調査書は出していなかった! もっと調べて……っ!」

ピウニー卿の言葉に、ラディゲはハッと顔を上げた。

「……やはり、というのはどういうことだ。俺を疑っているのか」

「待ってください」

その言葉を遮ったのは、ヴェルレーンだった。

「ラディゲ殿、貴方を疑っているのは僕です」

「ヴェルレーン……」

「貴方は、僕がピウニー卿を追っているのを知って、後を付けて来たのですね」

「そうだ」

ささいなきっかけだった。

一度だけ、ラディゲは、国王に聞かれたことがある。「ピウニーア・アルザスは本当に死んだのか」と。

責められている口調ではなかったが、国王は自分ではなくピウニー卿という騎士を必要としているというのが思い知らされ、ラディゲが荒れるきっかけとなった一言だ。その質問を、最近になってもう一度、問われたのだ。そのとき、ラディゲの心に何かが引っかかった。

それで、滑稽なことだとは思いながらもアルザス家を窺ってみたのだ。……すると、ピウニー卿の愛馬、シャドウメアが出て行くのを見た。そして、時間差でその後を追うように街を出たもう一つの馬も。いてもたってもいられず、無謀なことよと思いながらもラディゲはそれを追いかけた。

「あの調査書は、どのような経緯で提出することになったのですか?」

ヴェルレーンの言葉にラディゲは腕を組む。そもそもあの調査書は、魔法師団経由でラディゲに回ってきたものだ。当時、各地の魔物の動向をまとめる職務に就いていたラディゲには、王国のどの辺りにどういった魔物が活動しているか……という情報が集められていた。各領地の領主からの報告であったり、あるいはピウニー卿のような旅の騎士からの報告であったり様々だったが、その中の情報に、魔竜の調査書があった。

御前試合でピウニー卿に負けた時から、同期であるのにも関わらず、彼は追い越せない壁だった。しかも、追い越したくとも、ピウニー卿は王の勅命を受けて国を飛び回る調査隊という旅の騎士で、他の騎士達からの羨望と憧れの的であり、接触することも勝負することも叶わなかった。

これが、実力の無いものが家名だけでのしあがってきたのであれば、ラディゲにも勝つ自信がある。

だがピウニー卿のアルザス家は、次男パヴェニーアが白翼騎士団の団長、長女ペルセニーアがジョシュ王子の護衛騎士……と名が高く、それでいて野心に溺れるということもなかった。野心家からの挑発もどこ吹く風と、あまり宮廷にも関わらず、堅実に職務を全うするいかにも武人らしい家系だ。ピウニー卿自身も、帰還の度に功績を挙げていたし、裏表の無い率直な人物だということも知れていた。だからこそ、ラディゲは焦っていた。

そんな焦ったラディゲに思いがけず、団長へと報告する前に宰相に相談する機会があり、国王に直接提言する許可を得た。自身が名誉に逸っていた……という側面は否めない。だが、国王陛下に提言し、現に討伐隊は組まれたのだ。

「魔法師団経由……というのは、どこの師団からだ」

「魔法師団の、第5師団から送られてきた」

「第5師団……?」

サティとピウニー卿……そしてヴェルレーンの声が重なった。師団長はまだ決められていない、最も新しく作られた魔法師団である。そして、サティを襲ったヒューリオン……という魔法使いが所属していた組織だったはずだ。

「ヒューリオン……」

サティは額を押さえた。

部屋の人間がサティを見る。ヒューリオンの話を促されていることは分かったが、喉が詰まった。その様子を見て、ピウニー卿がサティの背中をそっと撫ぜる。その手に気付いてサティはピウニー卿をちらりと伺った。心配そうなこげ茶色の瞳が、自分を見ている。それに後押しされるように、サティは口を開いた。

魔法研究所の奥……正式には、魔法研究所特殊研究院と呼ばれている。より専門性の高い魔法を研究する部署だ。基本的に研究バカと呼ばれる変人が多い。サティはそこにも顔を出していた。ヒューリオンに呼び出されたのもそこでの出来事だ。

「死霊魔法っていうのは、死に関わる心魂魔法(人・動物などの魂や魔力に関わる魔法)のことで、厳密に『これが死霊魔法』と呼ばれる魔法語は存在しないわ。肉体に直接死を導いたり、生を止めたり、生死を操ることを目的とするのが死霊魔法」

心魂魔法が得意な魔法使いが、生や死の境目を探り、それを操ることに魅了されて、死霊使いに堕ちるのだと言われている。ヒューリオンもそうだったのだろう。あの時、ヒューリオンから魔法陣の見直しを相談された。綺麗な植物育成の魔法陣だった。……だが、サティは、それが巧みに隠された死霊魔法だということに気付いた。

それを指摘し、「やめたほうがいい」……と気遣ったサティは、ヒューリオンの怒りを買ったらしい。背中に魔法弾を打ち込まれ、後は、……知ってのとおりだ。突然始まった戦闘にサティは勝利したが、代わりに杖が折れてしまい、打ち込まれた呪いを杖無しで受け止めた。気が付いたら猫の姿になっていて、咄嗟に逃げ込んだ小さな部屋から迷いに迷って、魔法研究所の地下水路へ逃れてしまったのだ。

魔竜にかけられた呪いも同じ、ということは、ヒューリオンが関係しているのは間違いない。

「2つの呪いは同じ人間がやったと?……陥れられたのは、魔竜か。俺達は利用されたのか……?」

「だが、何のためにでしょう。わざわざ魔竜を暴れさせて、万が一にでも倒せなかったりしたら」

呪いの目的にたどり着くには、もう少し……情報が必要なのだろう。王都そのものから、得られる情報が。

思案に暮れている2人の騎士。ピウニー卿も腕を組み、無精髭の顎を乗せて何事かを考えている。沈黙が続き、話はそれで終わりとなった。

****

激しく剣戟の音が響いている。

ピウニー卿とラディゲが、手合わせをしているのだ。だが、それは手合わせという生温いものではなく、真剣で本当に殺し合わんばかりの打ち合いのようにサティには見えた。何度も剣が交差し、2人の身体が近づいては離れる。隙を見て蹴りが出たと思えば、片方の剣を地面に打ち払い、もう一方がそれを跳ね上げる。

「そんなに心配しなくても、大丈夫さね」

よほど悲痛な顔をしていたのか、サティの横に剣の賢者が並んでその肩を叩いた。

「でも」

「なあ、サティ。あんたピウニーのこと……」

サティは頭を振った。否定の意味ではない、剣の賢者が聞こうとしていたことの、肯定の意味だ。

「分かってます」

「自分の気持ちを?」

「……多分」

「ねえ、あんたらが呪いを解いたのって、もしかして……『あの』例外処理かい?」

サティは剣の賢者を見ずに、今度は頷いた。それを見て、賢者は溜息を付く。

「ああ……で、中途半端、か。なるほどね。でもさ、それはあんただけのせいじゃあないだろ……。ピウニーだって、あんたのこと……」

「でも!」

「でも?」

サティは剣の賢者の言葉を遮った。

猫の時はネズミのピウニー卿に触れたり転がしたり抱きしめたりするのは自分なのに、人間に戻ると途端にそれが逆転する。ピウニー卿の大きな手と身体が自分を包むと、自由が利かない。それが心地よい。ピウニー卿の余裕のある態度が、抗い難い。……だが、ピウニー卿は国王に仕える騎士。

呪いが完全に解けたら……、その先はどうなるのだろう。離れてしまうのだろうか。猫とネズミのときに自分が抱きしめる距離があまりにも近くて安心するから、人間に戻ったときにピウニー卿に抱きしめられたその手が離れることを思うと、自分の不安の大きさに胸がつぶれそうだった。

それに。

「またあんな風に関係ないって言われたら」

ピウニー卿が国王に仕える騎士である事実に、サティが関係ないのは本当だ。だから、もう一度「関係ない」と言われたら、次はきっとそれを受け入れるしかない。ピウニー卿は肝心なことを何1つ口に出して言ってくれないのだ。だから、素直に身を任せるのを躊躇ってしまう。

ああ……もう本当に、なんて子供っぽいくだらない言い訳なんだろう。自分だって何一つ言っていないのに、2人のことをピウニー卿だけのせいにするなんて、自分はとても我侭だ。そう思ったけれど、何も聞けなかった。他の憎まれ口なら、叩けるのに。

「ああ」

難儀だねえ……あの馬鹿ネズミ……と、剣の賢者は頭を掻いた。

そうこうしているうちに剣戟の音が止む。

「……くそっ!」

互いに騎士の一礼を施すと、ラディゲが悔しそうに頭を振った。実力がピウニー卿にまだまだ及ばないことを悟ったのだろう。サティの目には、それほどラディゲが押された風でもなかったが、ピウニー卿の余裕の表情を見ていると、やはりそれほどの実力の差があったのか。サティは少しだけ安堵の吐息を吐いた。

「おい、あんたら、怪我してるだろ、こっち来な!」

母親が悪戯っ子を嗜めるような口調で、剣の賢者がラディゲとピウニー卿を呼んだ。試合の審判をしていたヴェルレーンも後ろからついてくる。

「サティ、ピウニーの方は頼んだよ、あんたらの部屋使っていいから」

「え?」

何か言いたげだが言葉を紡がないピウニー卿を前に、怪我の具合を検分しようとしていたサティは、怪訝そうに剣の賢者を見た。ほれほれあっちへ行け、と言わんばかりに追いやられるうちに、ピウニー卿が急にサティの腕を掴んで、部屋へとサティを引っ張っていった。

今2人きりにするのは、待ってほしい。こっ恥ずかしい。だがまさかそんなことをサティは言えない。

****

「ピウニー、腕?」

「ああ」

「他には?」

「問題ない」

「見せて……」

ピウニー卿の腕を取って怪我を確認する。篭手も何も身に着けずに剣を合わせていたので、僅かに剣が掠めただけで服を裂いて怪我をしてしまったのだろう。いつも自分を軽々と抱き上げる筋の張った腕は太くて、自分とは全然違う。……妙に意識してしまう。サティは雑念を振り払うように自分の杖を引き寄せて、呪文を唱えた。

<イェラース・ウィート・オ・ウォーイセル>
(傷よ、治れ。)

腕から傷が消えたのを確認すると、サティはピウニー卿を見上げた。ラディゲに殴られて切った口の端が痛々しい。そっと触れてみる。先ほどからピウニー卿はあまり話してくれない。その沈黙がいたたまれなくて、サティは事務的に怪我を検分していたつもりだったが、ピウニー卿のこげ茶色の瞳が真剣に自分を見下ろしいて、その視線にぶつかると目が離せなくなった。

「ピウニー?」

だから、代わりに名前を呼んだ。

返事をする代わりにピウニー卿の手がサティの杖を奪った。ピウニー卿は杖を丁寧にサイドテーブルに立てかけ、サティの身体を引き寄せる。

「サティ……」

今までサティが聞いたことも無いような、熱くて、そして切羽詰ったような低い声が耳元を擽った。近い近い。声が近い。反射的に身体を引こうとしたが、抱き寄せる腕は強くてサティの身体は離れなかった。それどころか、もっと強く抱き寄せられ、もう片方の腕が頭に回される。

「ピウ、怪我を」

「かすり傷だ」

「でも……」

「サティ、もう少しこのままで……」

「ダメだって」

ピウニー卿が少し腕を緩めて、サティを見下ろしてきた。こげ茶色の瞳は潤んだように熱くて、これ以上見ていたら、やっぱり目を閉じてしまいたくなる。サティはやはり誤魔化すように、もう一度ピウニー卿の怪我をした方の唇に指をあてた。触れる顎と唇の感触が恥かしくて、「<イェーラス・ウィート>(治癒せよ)……」……呪文を唱えて慌てて手を引っ込める。それをピウニー卿が掴んだ。掴んだ手に口付けを落として自分の身体に回させると、もう一度しっかりと抱き直す。

「……あの、ピウニー?」

名前を呼んでみたけれど、返事が無く、ただ髪に熱い吐息がかかっただけだ。押し付けられた身体は、汗と土埃とピウニー卿の匂いがする。ネズミのピウニー卿を抱いているときのようにその温かさに安心する一方で、ピウニー卿の男としての雰囲気にその先を踏み越える不安が募る。

ピウニー卿は、サティの身体を抱き寄せたまま言葉を紡げずにいた。先ほどまで、激しくラディゲと剣を合わせていたからということもあった。魔竜の剣の手の馴染み具合も手伝って、気が昂ぶっているのが自分でも分かる。昂ぶったまま、今、サティと寝台のある部屋で2人きりなのだ。

うやむやになってしまっていたが、ピウニー卿が殴られたときにそれに怒りを露にしたサティや、呪いを完全に解くことができなかったと言ったときの泣きそうな顔、……そして、初めて聞いた、死霊使いとの戦いの様子。先ほど自分の唇に触れたサティの細い指。様々な感情が胸に落ちて思わず抱き寄せてしまったが、このままサティに触れていれば、全てを奪ってしまいそうだ。だが、どうしてもこの体温を、柔らかな身体を、離すことができない。

抱きしめている腕の中でサティの力が、ふ……と解けた。

「どうしたの、ピウ?」

サティがピウニー卿を見上げてきた。

ピウニー卿は自分を見上げるグリーンの瞳を受けて、思わずその唇に自分の唇で触れる。腕の中で一度サティが身を引きかけた……が、そっと目を閉じたのが分かった。ほんの少しだけ唇を緩めて、もう一度……今度は深く。幾度か角度を変えて、喘ぐように互いの唇を重ねる。拒まれるかと思ったが、サティがぎこちなく応えてきたことが、ピウニー卿の枷を静かに外した。

もっと奥深いところに触れたくてサティの舌を探し始める。ピウニー卿がサティの濡れた温もりに絡まるように触れた瞬間、腕の中の身体が戸惑うように反応したが逃げない。恐らく、慣れていないのだろう。こういう情を交わすのは初めてなのかもしれない。それでも、ピウニー卿に応えようとするサティの動きがいじらしい。

今度は、ネズミにも猫にもならず2人は触れ合っていた。今までずっと側にいたのにも関わらず、初めて味わうといってもいい好きな女の濡れた唇。その柔らかさと香り。細い首筋の吸い付くような肌触り。胸の詰まるような激情を感じて、ピウニー卿はサティの身体を抱き寄せたまま、寝台へと押し倒した。