ラディゲは自分の馬を麓に預け、単身グラネク山へと向かっていた。
旅の気持ちはグラネク山へと向かう。あの時、自分の名誉のために手を出した魔竜。ピウニー卿らはその魔竜に会い、和解し、剣と魔法を授けられたという。気持ちの大半は、一体何のためにこの魔竜討伐になったのか、という疑問だったが、その「善良な竜」というのが一体どのようなものなのかをこの目で見たいという好奇心も無くは無かった。
山を登っていく道程は覚えのあるものだった。違うのは、あの時、仲間たちと登った山道は妙に重たい雰囲気が占めていて、今のように厳粛なものではなかった。攻撃してくる魔物も多く、魔竜に合間見える前に幾度も戦闘を重ね、疲労していた。だが今は、周辺に魔物の気配はするものの、敵意を向けられることは無い。ラディゲは魔法はほぼ使えず、魔力のバランスというものは分からない。ただ、歴戦の騎士である彼に、今の周辺の空気が安定していることは分かった。
「着いたか」
グラネク山は、山頂が横に切られたようになっている。大きくは無いが、平たい台地である。低い緑の草が生え、ところどころむき出しの岩が覗く。その一際大きな岩。ぽっかりとそれのみが目立つ、あの袂に魔竜が居たはずである。あの時は、この山頂台地に立っただけでも、肌がびりびりと震えるプレッシャーだった。だが今はどうだ。空気は清らかで、周りには生き物の気配がするのに穏やかだ。ラディゲは魔竜の居た岩へと足を向ける。
バサ……!
大きく鈍い羽音がいくつも響き、ラディゲは空を仰ぐ。数匹のワイバーンが遠くで飛び立った。空と自分との距離を測り、静かに剣の柄に手を掛ける。……だが、ワイバーンはそのままラディゲの上を飛び去り、台地の向こうへと降下していった。攻撃性が無い……というのは本当のようだ。ラディゲは止めていた足を再び動かす。
そう長くかからず、岩の袂までやってきた。
あの時倒したはずの魔竜は、骨の一本も残ってはいなかった。
ラディゲは魔竜が倒れた場所にそっと膝を付き、地面に触れてみる。魔力を感じることはできないはずだったが、そこには確かに心地よい緊張感のようなものを感じた。触れて感じる……というのもおかしな話かもしれないが、魔力に鈍い自分にこれほど感じさせるのだから、あの魔竜という存在はやはり大きなものなのだろう。改めて、よくあれを倒したものだと思える。
「マハ・マハジューレ……」
ラディゲが、サティから教わった竜の名をそっと呟いた。
グオオオオオオオオオオン……!
突如頭上が翳り聞こえてきた咆哮に、ラディゲは弾かれたように立ち上がり、剣の柄に手を掛けた。
その姿をあざ笑うかのように、黒い艶やかな鱗に覆われた竜がラディゲの眼前に現れる。
「魔竜……マハ・マハジューレか……」
『いかにも。我はグラネク山の魔の竜。ウィロー・ナ・ムラン・イアディ=マハ・マハジューレ。人の子よ、かような場所に何をしにきた!』
覚えのある緊張感。己を試されるかのような威圧感。
異なるのは辺りに漂う清冽な空気。
正気を戻した魔竜の、正しい力の流れ。
そして。
狼程度の大きさの、魔竜だった。
****
……。
予想外の大きさに、ラディゲは魔竜の威圧感も忘れて、地面に降り立ったその存在を見下ろした。もともと、彼は魔力を魔力として受け止めるわけではなく、雰囲気や戦いの勘で受け止める男だ。目の前の存在から受け止める魔力は、少しでも魔法を齧ったものならば大いなる魔力と受け止めただろうが、ラディゲにとっては清浄で美しく、心地よい緊張感だった。ラディゲは、他の誰もが言わなかった率直な感想を言った。
「また、随分可愛らしいな」
『……か、わいい?』
「ああ……すまん。俺は、ラディゲ・ラファイエット……という」
『ラディゲだと?』
グルル……と、魔竜は喉を鳴らした。ジロリと金色の瞳でラディゲを見遣る。その視線を受け止めながら、ラディゲはここに来た経緯を説明した。ピウニー卿らから話は聞いている。目の前の竜が善良なのかそうではないのかは、自身ではまだ判断付かないが、いきなり剣を抜いて倒すべき存在でも無いように思えた。何より、小さい。見下ろす程だ。このような存在に振るう騎士の剣を、ラディゲは持っていない。
「お前と、お前を取り巻く魔物を調べに来た」
『調べる?』
「ああ」
『どうやって。見れば、そなたはほとんど魔力を感じられぬ身体ではないか』
言われてラディゲは腕を組み、「そうだな」と頷く。
「魔力は知らんが、だが、本当にこの山の者達が善き者達なのか、この目で確かめねばやはり分からないだろう。俺はそういう性質なんだ」
魔竜は瞳を細めてラディゲを見上げた。ラディゲは魔竜ではなく、広い台地を眺めている。
『ラディゲ……そなたは、かつて私を倒しに来た者じゃな』
静かで厳かなその声に、ラディゲは視線を落として金色の瞳を見返した。
「そうだな」
『そうか』
魔竜はラディゲから視線を外すと、先ほどまで彼が見ていた台地に視線を向けた。魔竜の故郷。自らが生まれたところで、自らが暮らし、自らが守る場所。
魔竜は己がどうしてここに居るのか知らない。もっとも古い記憶はこの国が建造された頃だ。親や兄弟などは知らぬ。どうして生まれたのかも知らぬ。ただ、魔法や魔力の知識も、自らの名前も、知らぬうちに、知っていた。何故なのかと疑問に思ったことはない。そういう存在なのだ。
そして、魔竜が知るほかの生き物は、この山に住まう魔物たちと……そして、自分を時折訪ねてくる物好きの人間の友だけ。その人の子の友も来なくなって久しい。
こうして、人の子が自分を訪ねてくるなど、……ピウニー卿らが魔竜討伐に来た以外は、もう何百年も無いことだった。
「憎いか?」
『何がじゃ』
「俺はお前を倒そうとした。止めを刺したのはピウニーアだが、俺の剣はお前を少なからず傷つけただろう。それに……」
しゅう……と魔竜は息を吐き出した。笑ったようだった。
「それに、ここにピウニーア達がやってきたのは、俺の出した調査書のせいだ」
ラディゲの声が僅かに苦しげに歪んだ。自分の進言がこの魔竜の呪いにどれだけ関与しているかラディゲには分からないが、少なくとも気付かないうちにその企み事の歯車のひとつに組み込まれていたのだ。
『だが、我の爪と炎もそなたを傷つけた』
「……」
『……我は……、我は、怒りの矛先を間違えたりはせぬ』
魔竜は目を閉ざした。
あの戦いは、苦しいものではなかった。むしろ、自分の苦しみを終わらせるための戦いだった。自分に向けられるすべての刃に感謝をし、自分が向けてしまうすべての牙を憎んだ。憎むべきはそれを導いた、忘れえぬあの魔法使いなのだ。ラディゲ達ではない。
『我はそなたら一行が来たとき歓喜した。我の苦しみがこれで終わる……と。我の爪で傷つけ、炎で焦がすことも無くなる……と。それが終わり、こうして人の子と再び静かに見えることができたのだから』
「ピウニー卿のおかげだというわけか」
『いや』
思わず自嘲気味にピウニー卿の名前を出してしまい、出してしまった瞬間舌打ちしそうになった。だが、ぶつかったのは魔竜からの思いがけない視線だった。思わずラディゲは、魔竜を見下ろす。魔竜はその視線を外すと、金色の瞳で再び台地を見つめた。
『……この山で。我の生まれた美しいこの山で、最後に人の子と見えたのが、あの戦いではなかったことが我は嬉しい』
「マハ……」
魔竜がラディゲを振り返った。黒い鱗に金色の瞳が、まるで宝石のようにラディゲを射抜く。
『再び人の子が訪ねてくれて、争うことなく話ができたのじゃ。これほど嬉しいことは無い』
「……そうか」
ラディゲはあの戦い以来、初めて己を認められたような錯覚に陥った。ラディゲとて分かっていた。いつまでも他の騎士の名誉と己を比較して、卑屈になるのはあまりにも幼稚なことだ。……だが、それでも、こうして己の剣を誰かに認めてもらいたかった。そんな自分の子供めいた気持ちに気付いて、竜の金色の視線と自分の視線を絡める。
その先にある、竜の表情など読めるはずも無いのに、自分を見て不意に笑ったようだった。なぜかラディゲの鼓動が跳ね上がり、意味不明に目を逸らす。その視線の動きに追い討ちをかけるように、魔竜の声が聞こえてきた。
『ところで、ラディゲ・ラファイエット』
「なんだ?」
『知っておるか?』
「何をだ?」
『竜には、繁殖期というものがあるのじゃ』
「……は?」
『我には今力が足りぬが、それもすぐに元に戻ろう』
「……おい」
ずずい……と、魔竜がラディゲとの距離を詰めた。岩を背にしているラディゲは追い詰められる。
「ま、待て!」
『ん? 我はまだ、何も言って無いぞ?』
「……む、い、いや、そうだが、その……」
『ラディゲ、顔が赤いな。なぜじゃ?』
魔竜がバサリと羽根を広げる。金色の瞳に魅入られたように、ラディゲは動けない。いや、実際には動けるのだが……なぜか、その瞳から目を離すことが出来ないのだ。むしろ、その金色をじっと見つめていたい。そういう衝動に駆られて……
「違う、何をやってるんだ俺は!お前は竜だろう!」
「そうじゃの。じゃがな?」
マハはくす……と小さく笑った。声色が変化したようだ。そして、ラディゲの頬に、細いたおやかな腕が伸びてくる。不意打ちだった。
「お、お前……マハ?」
「それ以外に何がいるのじゃ。ここには我とラディゲと2人だけ」
頬を暖かい手が包み込む。それはまるで人の手のようだ。いや、人の手そのものだ。よく見ると肩や手首の一部に鱗に覆われた翼の一部が生えている。だが、大方の部分は白い肌だった。ラディゲが思わずその腕の持ち主……マハを見る。
豊かな黒髪は地面まで届き、うねるように身体に巻きついていた。何も身に着けていない豊満な身体は髪の毛だけでは隠しきれず、ふくよかな胸の膨らみや細い腰から下にかけて、女そのものの曲線が露になっている。
そして。
ラディゲの顔に、魔竜の……いや、マハの顔が近づいた。金色の瞳は意外と大きく、黒い睫は驚くほど豊かだ。耳は人のものより長く尖っていて、さらにその耳の上からは腕や手首についているような翼の一部が生えている。唇は男を誘うように濡れていて、そのくせ、初心な乙女のように珊瑚色をしていた。その唇がそっとラディゲの唇に近づく。
「ま、待て、ちょっと」
「なんじゃ? 我では不服か?」
「いや、そういう問題じゃないだろう! マハ、お前、雌か!?」
「……雄に見えるのか?」
きょとんとした顔で、マハは首を傾げた。その表情は驚くほど人間くさく……可愛い。ラディゲは混乱の余り、とぼけたことを聞いてしまった。違う。あー、いや、そうではなくて……。
「言っておくが、誰でもいいというわけではないぞ? たまたまそなたが登ってきたから……とか、そういうわけではない」
問おうと思っていたことの答えを、先に言われてしまう。
「ならば、なぜ……」
「伴侶を見つけた竜はそのときから繁殖期を迎えるのじゃ。そして」
マハの柔らかい唇が、少し乾いた男のそれを濡らすように重なった。少し浮かして、小さく囁く。
「伴侶となるものが受け入れる意志が無ければ、伴侶と同じ姿にはなれぬ……。我がラディゲと似た姿になったのは……」
「似た姿」というのは、人に近い姿……ということだろう。
「な、お、俺が受け入れたと!?」
「違うのか……?ラディゲ」
マハの両手が、ラディゲの胸板に添えられそのまま体重をかけてきた。声のトーンがしょんぼりと落ちていくのを聞いて、ラディゲは思わずマハの肩を掴む。
「い、いや、しかし」
ラディゲにとって迫ってくる身体はそれほど重いわけでも大きいわけではないのに、その身は押されっぱなしで、岩を背にしたままだんだんと下降していく。ラディゲとて、女の身体をどう扱えばいいのか分からない、などという可愛らしい男ではない。……しかし、しかしである。魔竜の姿を確認しようと思って山に登り、竜に突然誘惑されてそれに迂闊に乗るなどと……騎士としてそれは……。
「人の子には、情を生むのに何か理由がいるのか? いや、違うな……。うむ、人の子の風に言えば、『人を好くのに理由が必要なのか?』教えておくれ、ラディゲよ」
「そ、それは」
「ラディゲ……我は竜じゃ。だが、理由は分からなくとも我は……」
ラディゲの腰は完全に地面に落ち、岩を背に座った格好になった。マハはそこに馬乗りになると、再び唇を重ねる。そのまま柔らかな湿った感触が頬を滑り、ラディゲの耳元で止まった。マハの声は、いつのまにか愛らしい女の声になっていて、それは切なげにこう言った。
「我は、今、ラディゲとこうしたいのじゃ……」
「ああ……くそっ……!」
ちょっと待ってくれ。なんという、これは殺し文句か?
悩んでいると、マハが柔らかな身体ごとラディゲに寄り添った。
竜と人の邂逅が、世界に何をもたらすのかは分からない。
だが、今は。
マハの金色の瞳いっぱいに映る世界は、己の鱗と同じ色の髪と瞳の色を持つ男だけだった。