ジョシュは自身に与えられた小さな庭のベンチで、1人悩んでいた。
肘置きに凭れた憂い顔は、12歳とはいえ、すでに整っている。父王とそっくりの青紫色の瞳は開いているが、どこか困ったようなぼんやりとした表情だった。
「ジョシュ殿下、どうされました?……お加減でも?」
声を掛けたのは護衛騎士のペルセニーアだ。ピウニー卿が魔竜を討伐しにグラネク山に向かった時期と同じくらいの時期に、ジョシュの護衛を勤めている。騎士でありながら、女性ならではの細やかな気遣いが評価され、ジョシュの周辺で働く女性達にも人気の凜とした女性だ。多少の融通が利く柔軟さも持ち合わせており、ジョシュも信頼している。ただ、少々過保護なところがあった。
「いや、大丈夫。……ちょっとね」
ジョシュは空を仰いだ。
悩みはあるが、今日は気分がいい。
今日は……というよりも、最近は……と言ったほうがいいだろうか。
少し前、サティという猫をセラフィーナがこっそり連れてきたことがある。一度脱走してしまい、ペルセニーアとパヴェニーアの手を煩わせてしまったのだが、無事捕らえることが出来た。
<ニシャーナ・ア・ナヌーウ>
(柔らかなる、安らぎを)
<ナイェヒ・ア・ナヌーウ>
(柔らかなる、平穏を)
これはそのサティが教えてくれた不思議な言葉。魔法語についてはいくつか知っているジョシュも、聞いたことのない言葉だった。古代魔法語……らしい。「これを唱えると、気分がよくなるんです。でも秘密ですよ」と言って、教えてくれた言葉だった。確かに、この呪文?……を唱えると、身体全体のバランスが不思議と落ち着くような心持になった。
サティ。不思議で綺麗な猫だった。
セピア色の毛皮は絹のようなさわり心地。声は、華やか過ぎず淑やか過ぎず、す……と染み渡るようだった。声……と言うと、おかしいかもしれないが、彼女は確かに人と同じように話をしていた。猫でありながら、オリアーブで一番偉大な魔法使いである理の賢者の弟子だというのだ。
そして、サティは、夜中にジョシュの寝台の下の魔法陣を見つけ、ジョシュの身体が弱い理由を見破ったのである。
ジョシュの身体が弱い理由は「魔力抑制」の魔法陣のためだとサティに指摘され、自分自身もそれに気付いていたジョシュは驚くことなく、どういった対策を取ればいいのかを相談した。王太子としては浅はかな行動だったかもしれない。
王太子の身体に仕掛けられた「魔力抑制」の魔法……となれば、それは酷く大きな政治的要素を含む事柄だ。その秘密を知ったサティが、この情報を利用して、国王や自分を陥れるかもしれない。……そんな可能性も理解しながら、このとき、ジョシュはなぜかこの猫を信用した。
サティも一緒だ……と言ったのだ。
自分の中にある魔力。うねるようなこの力。誰もが持っているわけではないらしい。それを無理矢理抑制し、押さえ込んでいるだけでは偏ってしまう為に、時折揺らしてならす。それはまるで、空気の薄いところで生活させられているようなそんな息苦しさで、少しでも特別なことをすれば、体の力のすべてが奪い取られていくような感覚に陥った。サティという猫も同じように強い魔力を持ち、それを抑制して生活していたことがあるらしい。
『殿下はずっと我慢していらしたのですね』
……と、サティは言った。
『動く手があるのに動かせない。歩く足があるのに歩けない。剣がこの手にあるのに、どう使えばいいのか分からない。……そういうもどかしさを、怖さを、ずっと我慢していらしたのですね』
……と。
『殿下は立派な王子です。大丈夫。師匠に相談してみますから。……ですから』
サティはそのとき、王子の頬に顔を摺り寄せた。暖かい、ふわふわした毛皮がくすぐったくて、思わず頬に手をあてる。
『ですから、……今は泣いてもいいんです。怖かったですね、殿下』
ジョシュは泣いていたのだ。
「動く手があるのに動かせない。歩く足があるのに歩けない」もどかしい気持ち。「剣がこの手にあるのに、どう使えばいいのか分からない」恐怖。王太子であるがゆえに魔力を抑制され、王太子であるがゆえに誰にも相談できず、12歳という子供であるがゆえにずっと抱えていた気持ちを、サティはいともたやすく見破った。ジョシュは自分の気持ちが零れ落ちるようにしくしくと泣いて、サティは落ち着くまで尻尾でずっと手の甲に触れてくれていた。
やがて、ジョシュは泣き止んで「教えてくれないだろうか」……と言ったのだ。
「魔力抑制を行う理由」と、そして何よりも、「自分自身の魔力をどうすれば、父王の役に立てることができるのか」と。
****
「ジョシュ殿下。……国王陛下がお見えになられました」
「え?」
思いがけないペルセニーアの言葉に、ジョシュは慌てて身体を起こした。ペルセニーアも驚いているようだ。だが、国王陛下自身がやってきたとなれば、一介の護衛騎士にはどうすることもできない。ジョシュは頷いて、ゆっくりと立ち上がる。
「ジョシュ」
ペルセニーアが深く一礼して、少し離れた既定の位置まで下がる。現れた国王が……父が、立とうとするジョシュを手で制した。
「立たずともよい」
「父上、このようなところまでご足労を……」
「かまわん。座っても?」
「え?」
父王がジョシュの肩を支えて、思いがけず、並んでベンチに座ることになった。
実のところ、ジョシュは父である国王が苦手だった。恐らく父は、身体が弱く満足に王太子としての執務が出来ないだろう自分を厭うているだろう。その証拠に、時折顔を合わせたとしても素気なく、当たり障りのない言葉を交わすだけなのだ。
小さな頃はそれでも無邪気に父王にぶつかっていたと思うが、身体に障るからと制され、当然のことながら王太子としての振る舞いを求められるうちに、それもすっかり無くなってしまった。なにより、自身の身体の弱い理由を、父王にすら相談していない……という負い目もあり、ジョシュ自身もどのように接していいのかが分からくなったのだ。
そんな父王が、今日はどうしたことなのだろう。
「父上、今日は?」
「いや……特に用事があったというわけではない。執務の時間が余ったからな」
父王は曖昧に、何をすればいいのか困った風に中庭を見ていたが、やがてジョシュを伺った。
「ジョシュ、お前の部屋に猫が迷い込んだそうだな」
「は……」
そうか、そのことか。用事が無いのに父王が自身を訪ねてくることなどないのだ。ジョシュは硬い笑顔を浮かべて、当たり障りなく頷いた。
「ええ。この庭に、小さな猫が迷い込んでしまいまして。一晩の世話を」
「そのときに、ヴィルレー公爵令嬢が来ていたとか」
「はい。それもあって、私が思わず構ってしまいました」
セラフィーナのことをあまり表に出さないのはジョシュの気遣いだろう。国王にはもちろんそれが知れ、「そうか」と頷いたのみだった。
「ヴィルレー公爵令嬢とは、仲良くしているか」
「え?」
思いがけない言葉に、ジョシュは目を丸くした。だが、父王の瞳は真剣でいつになく……暖かい。
「どうかなさったのですか?」
「いや……」
父王が困った顔をしていた。こほんと咳払いをして、溜息をついている。
「その、何か困ったことは無いか?」
「困ったこと?」
父王の方が困った顔をしている。
「父上の方が何か困った顔をされていますが……」
「そうか……?」
「母上に何か言われたのですか?」
「いや! そうではない。ここに来たのは余の意志だ」
「はあ……」
「だが、しかし、妃もお前のことを心配しておった」
「何をですか?」
「お前と……ヴィルレー公爵令嬢の事をだな……」
国王……ジェレシス・オリアーブは、ヴィルレー公爵と妃に「ジョシュの様子はどうなのか」と何度も問う余り、「そんなに心配ならご自身で確かめてくればいいではないですか、同じ王宮にいるのだから」……と、まるで同じことを言われ、国王自身も、1人息子との距離感がこのままではいけないと省みて、こうしてやってきたのである。話題に困り、思わず、ヴィルレー公爵令嬢のことを出してしまった。
だが、ジョシュはいよいよ目を丸くした。そういうことか。国王の意図とは反して、思わず警戒して口調が堅くなる。
「セラフィーナはまだ7歳ですよ。私もまだ12歳です。今からそのようなことを言うのは気が……」
「余もそう思うのだが、あれが『ちっとも早くありません!今からちゃんと女性に対する紳士の態度というのを学んでいかなければ、あのような可愛らしい子に逃げられたらどうするのですか!』……と……」
「相変わらず……母上は本当にセラフィーナのことを気に入っておられるのですね」
慌てて一息に話す父王の口ぶりに、困ったようにジョシュは笑った。幸いなことに、セラフィーナは城の誰からも好かれている。父の妃である母も、まるで娘のように可愛がっている。それにしても。
はあ……と溜息をつく父王。そんな父をジョシュは見たことが無かった。いや、正確には久しぶりに見た。とても小さい頃、父と母と3人で他愛も無い時間を過ごしていたときに、父と2人でやった悪戯だったか何かを母に窘められたことがあったが、そんなときの表情だった。
だから懐かしくて、なぜか嬉しくて、思わず警戒を解いた。ジョシュは、ふふふっ……と悪戯っぽく笑う。
「ならば、父上。ご相談したいことがあるのですが」
「なんだ?」
息子からの「相談」に、父は少しばかりウキウキと、ジョシュに向き合った。
****
「かわいらしいもの?」
「うん。こういうのはペルセニーアみたいな女の人に聞くのがいいって、父上が」
結局、父上は相談に乗ってくれなかったんだよ……と、ジョシュは大層嬉しそうに笑う。「セラフィーナに贈り物をしたいんですが、あのような女性には何を贈ったら喜ぶでしょうか」と言ったときの、父のあたふたとした顔といったらなかった。いつもは厳粛な王である父にあんな顔をさせるのも、悪くはない気分だ。そう思うのは、不謹慎だろうか。
そう。ジョシュの頭を悩ませていたもの。それは。
「なるほど。セラフィーナ嬢のお誕生日ですね」
「うん。あのくらいの年頃の女の子は何を喜ぶのかな? 僕はそういうことにあまり詳しくないから」
「それならば……」
ペルセニーアは、城下にある1軒の玩具店を紹介した。小さい設えの店だがよいものを扱う素晴らしい店主がいるという、兄のパヴェニーア推薦の……ではなくて、パヴェニーアの奥方である、セシル推薦の店である。
数日後、その店の店主がジョシュの元にお勧めの品物を持って訪ねてきた。もちろん、ジョシュが国王の許可を得て呼び寄せたのである。
そこで、ジョシュが目に留めたのは、触れるとセピア色の毛並みが心地よい、大きなガラスの瞳はグリーンの、小柄な猫のぬいぐるみだった。「しんがぷーら」という種類の猫のぬいぐるみだという。同じぬいぐるみがアルザス家にあるのを知っているペルセニーアは、多少複雑な心境だったが……その事実はとりあえず伏せておいた。
ジョシュは楽しげに、そのぬいぐるみに緑色の綺麗な石のついたリボンをかけている。
きっと、セラフィーナは喜ぶだろう。
セラフィーナの顔が綻ぶのを想像しながら、ジョシュはいつになく浮き立った気持ちを隠しきれなかった。