「はあ……はぁ……。も、もう駄目……」
女は肩で息を吐きながら、傍らの石壁に手を突いた。もう片方の手に持った杖を引き寄せ、掛けている眼鏡の位置を直す。
ここは、オリアーブ王都の北西に位置する遺跡だ。今は崩れ去った古い街の名残が僅かに残っている程度で、街道からも少し外れており、人が来ることも少ない。だが、ここに残る遺跡の石……かつての建物を象っていた石材はとても珍しいもので、女はよくここにそれを採取しに来ていたのだった。そこを魔物に襲われ、女は必死に逃げてきたのだ。
<エティハシェーク・オ・イアヘーク・プリムベル>
(プリムベルが纏う兆しを失くして)
吐息交じりに呪文を唱える。気配を消し、注目を外す魔法だ。それでも、姿が見つかってしまえば効果が無い。
「こんなことなら、もっと実戦向きの魔法やっときゃよかったですわ……」
女は魔法使いだった。だが、普段は魔法陣や呪文の開発ばかり手掛けていて、解析は得意だが実戦はほとんど経験がない。この杖に大量の魔法は積み込まれているが、そういう向きの呪文は開発していない。どれもが、術式や呪文の美しさ、響き、相反するからといって誰もが絶対に2重効果にすることの無い呪文の組み合わせを行った場合の効果とそれに伴う順序に基づいて複数術式における終わりの無い魔力の循環と形にこだわった……
ギャアアアアギャアアアアア!!
「きゃーーーー!!」
しまった。考え事をしていて、女はすぐ側まで敵が迫っていることに気付かなかった。気配が気付かれたわけではない。単純に、身を隠していないから見つかったのだ。
バサバサッ……!
羽の音が響き、思わず避けた顔に地面が見える。そこには2匹の羽根を広げた人型の影が映っている。顔を上げると、自分からそれほど離れていないところに、バランスの悪い身体に、蝙蝠羽を羽ばたかせた醜悪な顔のインプが浮かんでいる。震える声で女は呪文を手繰り寄せた。
「……オ……、オグウィーブ・ウラーン・ネツァ……」
「伏せろ!」
有無を言わせぬ男の声が響き、小さな何かが目の前を横切った。それは自分と敵の間に陣取ったようで、すぐ側で魔法の気配がする。女は言われるままに伏せた。
<ウロアマ・アラク・エテビューシュ>
(全てから守る壁を周囲に)
空気に溶けるような綺麗な女性の声で、シンプルな呪文が響く。同時に周囲に清浄で完璧な防御魔法が張られたのが分かった。
「サティ!」
さらに、それより小さい影が横切った。それに合わせるように、再び呪文が聞こえる。これは古代魔法語を使って構築しているようだ。
<エボートトゥ・アマ・ユムツォーノ・ピウニーア>
(ピウニーアの望むままに跳躍する力を)
視界の端に、インプに向かって吹っ飛んでいく何かが見えた。
ギャアアアア!!
バチ!……と、一瞬力強い魔力の気配が膨れ、一匹のインプが目を押さえてバランスを崩し地面に失墜する。それに怯んだ2匹目が途端に挙動不審になり、身を翻そうとした。だが、インプ達の後方からやってきた何者かの剣が一閃し、その身体はなぎ払われた。断末魔の声が響いて、緑色の血と共に2匹目も地面に沈む。
「ピウニー卿!」
「こちらは大丈夫だ」
低く渋みのある先ほどの男の声に相反して、爽やかな青年の声が聞こえた。低い方の声は、ピウニー卿……と呼ばれているようだ。何者かの影が地面に落ちたインプの身体の側にしゃがみ、検分している。どうやら地面に落ちるときに、頭を強く打ち付けて絶命したようだ。
「ピウニー!」
「サティ、大丈夫か?」
呪文を詠唱していた女性の声に、低く甘く女性名を呼ぶ声が重なる。
「うん、大丈夫、ねえ、ピウニー……」
「さ、てぃ?」
女は眼鏡を直して、その名前を復唱する。2人の声が聞こえてきた方に視線を向けてみると……人の声だと思っていたのに、その声は思いのほか低いところから聞こえてきて、視線の先にあったのは、ネズミに鼻を寄せる猫の姿だ。何事かを話しながら、ネズミの腹周りをふんふんと調べているようだった。「サティ? どうした?」その猫にふんふんされているネズミが、きょろきょろと自分の腹周りを見ている。
その様子を観察しながら、女は「サティって?」もう一度名前を反芻した。……今度こそ、女の「さてぃ」の声に猫の耳がピクンと反応して、顔を上げてこちらを見る。グリーンの瞳が大きくて、セピア色の毛並みが艶やかだ。そして、何よりその声と、その、名前。
「サ……」
「大丈夫ですか、お嬢さん!!」
女が再び「サティ」と呼ぼうとした瞬間、何者かが自分の手を取って跪いた。杖を持っていないほうの手を両手でそっと握り締め、その声は爽やかだがなぜかくぐもっている。蜂蜜色の前髪の下にある顔は、マスクをしていてよく見えない。マスク……。なぜマスク。女は我に返った。
「きゃーーーー!」
ゴン……!
「うぐっ」
旅装に大きなマスクをしている様子は、(女にとって)なんとも不自然で不気味であった。女は涙目で思わず杖を振ったのだ。小気味よい音が響いて、マスクの男は頭頂部を抱えてうずくまる。
「プリムベル!」
咎めるような声が聞こえて、プリムベル……と呼ばれた女は振り返った。ああ、やはり、その懐かしい声は。
「サティ? サティですの?」
だけど、振り返った先には猫しか居ない。眼鏡の位置を直して、プリムベルの瞳は見る間に潤む。
「サティ? サティ、どこですの?」
「あの、プリム?」
「私のサティ? ねえ、サティ、声だけじゃなくて出ていらして、サティーーーー!?」
「プリム、プリム。あのね?」
「サティーーーーーー!? どこですのーーーー!」
声が怖い。
「あの、プリム落ち着いて」
「だからマスクするの嫌だったんですよ僕の顔が見えなくなるでしょう!」
「ほほう、それは何か関係があるのか」
低い声が至って真面目な調子で応じた。
遺跡は夕暮れに赤く染まり、日は沈もうとしている。
****
「サティ! なんてことでしょう。猫になってもとても愛らしくて、魔法も使えるなんて!」
「う、うん、ありがと。あの。そろそろ離して……」
遺跡からもっとも近い街道を2頭の馬と、人間が2人、並んで歩いている。
「駄目です」
「プリム……」
サティが多少うんざりと言葉を濁すと、プリムベルは渋々サティをシャドウメアの鞍の上に置く。
ピウニー卿らが助けた魔法使いの女性は、プリムベルという。
「わたくしは、理の賢者の娘にして、弟子、プリムベルと申します」
眼鏡をきちんと直し、つん……とどこか澄ました顔のその名乗りに、男2人……正確には、ネズミのピウニー卿と、今はマスクを外したヴェルレーンは顔を見合わせた。理の賢者の娘?……あの年齢不詳のお髭の老人にしか見えないあの理の賢者に、こんなうら若い娘さんが居るというのは意外だった。意外だったというか……、奥方が……居るのか? 興味はあったが、なんとなく詮索するのは憚られた。
いずれにしろ、機嫌がいいのはヴェルレーンだ。ヴェルレーン・サテュルニアという男は、叫ばれながら杖でぶたれても決してめげない男であった。むしろ燃える。物理的にも精神的にも打たれ強いのである。
「それにしても、理の賢者殿の娘さんがかように知的で美しい方だったとは。プリムベルさんといいサティさんといい、理の賢者殿はよい弟子に恵まれておいでですね」
「サティの方が綺麗ですし、魔法も素晴らしいですわ!」
「サティさんもお綺麗ですが、貴女も負けず劣らずお美しいですよ? プリムベルさん」
「貴方は、人間のサティを見たことがありますの?」
「もちろんですとも」
「ならば、お分かりでしょう」
「ええ、分かります。プリムベルさんは、サティさんとはまた異なる魅力をお持ちです」
放っておけばさっきからずっとこの調子で、「サティはサティは」と煩いプリムベルに、当の本人は何度目かの溜息をついた。今は、ヴェルレーンがくしゃみをしないように荷の袋の中に頭まで隠れて丸くなっている。その中で、サティは考え事をしていた。
ピウニー卿が先ほど振るった魔法剣。一撃でインプを落としていた。以前は野生の狼やモグラネズミ相手にあまり効いていなかったのに、信じられない威力だ。それほどまでに、マハの剣……竜剣の力が強いということだろうか。
考え事をしているサティの喉元には、いつものようにピウニー卿がいる。ピウニー卿はまんまるの瞳を細め、サティの喉の毛皮を撫でてやった。ピウニー卿の体温が側にあって、喉元や耳後ろを撫でてやると、サティはゴロゴロと喉を鳴らすのだ。
喉が鳴るのをからかうと、サティの機嫌が悪くなるので何も言わない。ピウニー卿の髭が勝手に動くのと同じで、勝手にゴロゴロ鳴ってしまうのだそうだ。嫌だと言っていたが、ピウニー卿にとっては可愛いく心地よい仕草だ。……それにしても、ヴェルレーンとプリムベルの不毛な言い争いなどは、ピウニー卿には全く関係が無いのである。サティが綺麗? 言われなくても分かっている。それをピウニー卿は声に出そうとした。だが、外からプリムベルの声が遮る。
「ちょっと、ピウニーさん、今サティに向かって不埒なことを考えてましたわね!? そうでしょう!」
ピウニー卿が、うぐ……と言葉を詰まらせる。
「べ、別に不埒なことなど考えておらん」
「ネズミの姿の癖にイチャつかないでくださいよ!」
「ヴェルレーン! 私はイチャついてなど……」
「はあ? イチャつく……今、イチャつくと申しましたの?」
「だああああもうーーーーー、やかましい!」
サティの不機嫌な一喝が響いたタイミングに合わせたかのように、遠くに明かりが見えてきた。
理の賢者の邸宅に4人が到着したのは、夜の帳がすっかり降りた頃だった。
****
オリアーブ国王の執務室で、国王ジェレシスは机に向かって書き物をしていた。
それは、書類ではなく書簡のようだ。
書き上がった書簡を2度3度目を通して内容を確認すると、丁寧に折りたたみ封筒へ入れる。
国王は立ち上がって執務室に備え付けている、小さな魔法灯の傍らへと歩み寄った。背の低い棚の上には書簡用の蝋と封蝋の印璽、そして魔法陣があった。手に持てるサイズの魔法灯の蓋を開けると小さな炎が揺らめく。その炎の熱を使って蝋を手紙の封の上に垂らし、頃合を見て、国王の印璽の為された封蝋で型を押した。
国王よりの書簡。
魔法灯の側に描かれている魔法陣へと、それを置く。
<エルクーオ・エーテコ・ドート・オ・ナクシュ>
(手紙を届けよ。宛先は、)
それは国王だけが使うことの許される、魔法語だ。魔法陣に置かれた書簡は小さく光り、
<アーイェク・オ・イラウォート>
(理の賢者)
溶ける様に消える。
書簡が消えたのを確認すると、国王は懐からもう1つの書簡を取り出した。中身を確認して、小さくため息をついた。
「……これはまことか」
取り出した手紙を魔法の炎にかざすと、それは辺りに火の粉を撒き散らすこと無く静かに燃えて消える。
「バジリウス……」
そして。
「ジョシュ」
国王は1人息子の名前をそっと呼んだ。その顔には、消化しきれぬ多くの問題を抱えた苦い表情が浮かんでいる。
武に強かった先王から国を引き継ぎ、ジェレシスはよく国を治めていた。武の治世の後に、賢の治世。国民からも騎士達からも慕われる、穏やかな王だ。だが、いまだに先代の……武王のような治世を求める宮廷の輩も多くいる。……が、今回はそういった輩の言動よりも、ジェレシスを堪えさせた。
しばし瞑目した後、青紫色の瞳を上げると、魔法陣の上に書簡が届いていた。
印璽は理の賢者。
国王は、その書簡を手に取った。
L’apprenti sorcier, scherzo symphonique
Dukas, Paul
交響詩『魔法使いの弟子』作曲:ポール・デュカス