理の賢者の家は、杖と剣の賢者の家よりも見た目は小さかった。荒野に一見ぽつんと建っているように見える。だが、入ってみると驚くほど広くて、どこにどのような部屋があるのか、分かるような分からないような……不思議な家だった。ある部屋には剣ばかりが置いてあり、ある部屋には杖ばかりが置いてある。そうかと思えば別に部屋には、紙に描いた魔法陣が壁に貼り付けられている。
「プリム、師匠は?」
「お父様はお母様のところですわ」
「ああ……」
サティは得心したように頷いて、前足で顔を拭いた。師匠が奥方のところに出向くと、3日は帰ってこないと見ていい。呼びかけにも応じないはずだ。呪いや……そして、ずっと気になっていたジョシュの魔力抑制の魔法陣のことなど、解決しておきたいことは山積みなのだが、師匠が帰って来ないことには解析の結果は知れないだろう。ジョシュの魔法陣についてはプリムベルも知らないはずだし、サティは、クルルと喉を鳴らすだけにとどめた。
プリムベルにとってサティは姉であり姉弟子であり家族だ。血がつながっていないことはもちろん知っている。プリムベルがとても小さい頃に、父である理の賢者が連れてきた。サティが連れて来られて来た頃の記憶は、プリムベルには無い。物心ついたときから、プリムベルにとってサティは越えられない人だった。
小さい頃から彼女の魔法も魔力も素晴らしく、古代魔法語にも通じていて生み出す術式もシンプルで綺麗だ。自分には到底出来ない芸当ばかりをやってのける。……もちろん、プリムベルの魔法の腕が低いというわけではない。プリムベルの魔法に対する技術の深さは、理の賢者に言わせればサティと同程度だ。
それでも、理の賢者の娘に真にふさわしいのは自分ではなくサティなのではと卑屈になったこともあった。けれどサティはプリムベルの魔法を、突拍子も無いのにそれを実現させてしまう応用力がすごいと褒め、できると思ったら絶対にその解へ辿りつく解法は才能だと思う……と指摘してくれたのだ。炎と氷の2極属性を同時にかけて熱を感じさせないまま、それを防護の結界にしてみようとか、そんな発想どこから生まれるのよ、……と、まあ、そういうレベルの議論を、寝食忘れて延々続けたのはいつだったか。
こうしていつの間にか2人は、互いの技術的短所と長所を認め合う姉妹以上の弟子になっていったのだ。
だから、1年前に消えたと思っていたサティが元気にしていたと聞いていれば、すぐさま迎えに行ったのに……という。
「師匠は何も言ってなかったの?」
「お父様は何も教えてくれませんでしたわ。まあ、そういう人ですもの」
3人のためにお茶を淹れながら、サティの問いにプリムベルは苦笑して首を振った。
1年前にサティが巻き込まれた戦いの場に、プリムベルは居た。その場に居たのに助けられなかったこと、見失ったことを激しく後悔したという。
「1年前……どのようなことがあったのですか?」
「それは……」
お茶の用意を手伝ってくれているヴェルレーンの質問に、プリムベルは答えるのを躊躇った。自分が説明すべきではなく、サティが説明すべきなのではないだろうか。……ちらりと、サティの方を伺う。
「1年前の話?」
「お父様と、第1師団に変質魔法の講義に行った、帰りだったですわね」
「ヒューリオンに呼び出されてね」
サティはピウニー卿の側まで来て身体を丸くする。いつまでも話さない、というわけにはいかないだろう。
サティの声はどことなく切なげだった。
****
当時サティは、魔法師団から理の賢者宛にやってくる依頼の代理を務めていた。……といっても、それほど件数が多いわけではない。だが、幾度か魔法研究所や魔法師団に出向けば言葉を交わす人間もできる。ヒューリオンという魔法使いもその1人だった。ヒューリオンは心魂魔法に造詣が深く、魔法陣の構築が得意な魔法使いだ。サティへの問いかけも的確で、問答するのは楽しかった。初めて出来たプリムベル以外の魔法使いの友人とも言える存在に、魔法研究所へ出向く依頼が楽しみになり、ヒューリオンのことも信頼するようになった、という。
だが、ほんの少しの違和感を感じたことがあった。
ヒューリオンがサティに相談してくる魔法陣や、呪文は、確かに心魂魔法そのものだったが、ひとつ間違えれば死霊魔法に落ちてしまうような危うい魔法語ばかりを使うようになってきたのだ。それを指摘するのは簡単だったが、サティには出来なかった。気のせいだ……と思おうとした。せっかく出来た魔法使いの友人を失うことはしたくなかった。
だから、サティは死霊魔法に気をつけろ……という前に、サティの知り得る限りの、古代魔法語を使ってさりげなく魔法陣の修正をアドバイスしたのだ。古代魔法語にまで造詣の深い魔法使いはあまり居ない。普通に使われている魔法語よりも感覚的で情緒深い、サティの得意とする魔法語だ。死霊魔法に使われるような言葉から引き離すために、美しい、情緒的な古代魔法語をサティはヒューリオンに懸命に教えた。ヒューリオンはサティが思ったとおり、古代魔法語もすぐに吸収してくれた。
あの日。久しぶりに理の賢者とプリムベルの3人で依頼を受けた講義の帰り道。ヒューリオンに呼び出された。ついでだから……と足を止め、師匠と妹弟子に断ってヒューリオンに会ったのだ。ヒューリオンに会うのもまた、久しぶりだった。アドバイスが欲しいと言われて見せられた魔法陣は、植物育成の魔法陣。確かに素晴らしいものだったが、巧みに死霊魔法が組み込まれているのが、サティには分かる。
それは……恐らく、ヒューリオンからの挑戦だったのだろう。サティはたやすくそれを見破ったのだ。しかし、もう、
限界だった。
これ以上、黙ってヒューリオンに死霊魔法の深淵を覗かせてはいけない。そう決心して、サティは首を振った。
ヒューリオンの魔法陣に魔法語のひとつを付け加えて、それを返しながら言ったのだ。
「ヒューリオン、やめたほうがいい」
「何を……」
「死の淵を覗いてはいけない。生と死の狭間を見てはいけない。世の中には操ってはいけないものがあるの」
「……サティ」
「<ニーフュイ・アヌテシア・トゥ・ヒューリオン>……お願い」
そのときのヒューリオンの、サティの言葉を聞き、サティが修正した魔法陣を見たときの、傷ついた様な焦ったような表情が忘れられない。いつも自信に満ちていたヒューリオンが露にしたその表情を見ていられなくて、サティはすぐに身を翻して研究室を出ようとした。その背中に。
「……本当に、サティはいつもそうやって私の数十歩先を行くね。私の得意とするものすら奪っていく。サティさえいなければ、心魂魔法は自分のものだと思えるのに……」
そう言い放って、次の瞬間背中に焼け付くような痛みが走ったのだ。攻撃魔法を放たれた思ったのは一瞬。なぜ……という疑問をすぐさま頭から切り離し、癒しの呪文を唱えてヒューリオンに向き合う。ヒューリオンは憎しみを込めて、自分を見つめていた。サティはそのとき思ったのだ。
ああ。
自分はこの人にずっと憎まれていたのだ。
楽しい気持ちで話していたのは自分だけだったのだ。
その表情をみたヒューリオンは、静かに笑ってこう言った。
「そう。私はサティが憎かったんだよ。それも知らずに居たなんて、本当に……」
<アヌ・クィツグ・オ・サティ>
愚かなサティ。
ヒューリオンの侮蔑に満ちた呪文が、サティの心を鋭く抉る。
その呪文は呪いのように、サティの心から気力を奪っていく。だが。
「サティ!」
自分を呼ぶ声が聞こえて、サティはヒューリオンの呪文に抵抗した。
理の賢者とプリムベルの声は、サティに気力を取り戻させるには十分すぎるほど力強いものだった。サティは研究室と廊下を遮断する防御魔法を張る。それは理の賢者すら解呪するのが困難な結界だ。
防御魔法の中にいるのは、ヒューリオンと、サティだけ。
<ニーフュイ・アヌテシア・トゥ・ヒューリオン>
親愛なる友よ。ヒューリオン。
サティの清冽に満ちた呪文が、ヒューリオンの顔をさらに憎しみに歪ませた。
「お前さえ居なければ」
ヒューリオンが杖を構える。
「ヒューリオン……どうして?」
しかしサティもまた、杖を構えた。
****
そうして2人の魔法は激突し、後に残ったのはサティの折れた杖と服だけだったのだ。戦いはヒューリオンとサティを消滅させた。少なくとも、プリムベルにはそのように見えた。
「あれほどの事件があったのに騒ぎにならなかったのは、研究所の奥の方で事が起きたというのもありますけれど、サティの結界が強力で、外に一切被害を与えなかったからですわ」
外から見れば部屋の内部だけが滅茶苦茶になり、魔法使いが2人居なくなっただけ……という状況だったのだ。理の賢者はこの状況を魔法師団や騎士団、国に対して報告は行わず、以降の依頼を全て断るようになった。魔法師団がヒューリオンという魔法使いが忽然と消えた事実をどのように受け止めたかまでは、分からないままだ。
「第5師団は、宰相も深く関わっている魔法師団だ。バジリウス宰相に聞けば、何か分かるかも知れんな」
「……知らないわけは、ないでしょうね……」
ピウニー卿とヴェルレーンの声が下がった。いまはプリムベルがサティに毛羽立ちを防ぐ防御魔法(即席)を掛けていて、ヴェルレーンにくしゃみの症状は出ていない。
「ピウニー卿とサティさんの呪いは、同じ第5師団の魔法使いの仕業なのでしょう」
「最後に、ヒューリオンが私にかけた呪いの魔法と、マハから聞いた呪文は一致する。だから、多分……」
「もしそうなると、サティさんと戦う前に魔竜に対して呪いを掛けていた……ということになりますよね。しばらくヒューリオンが魔法師団を留守にしていた……などという記録が残っていれば……。王宮に戻れば、そういった類の資料があります。調べてみましょう」
そういう調査は得意なのがヴェルレーンという男なのである。
****
「サティ。寝たか?」
案内されたのはサティがいつも使っている部屋だった。1年前から何一つ変わっていない。まるで、1年というブランクなど無かったかのように、そのままだった。プリムベルは断固として「同じ部屋却下です!」と言い張ったが、サティはいつもの癖でそのままピウニー卿を部屋まで連れてきてしまった。
「ん? 何、ピウニー」
寝台の上で丸くなって、いつものように2人して眠っていたのだが、ピウニー卿はどうしても眠れずに、ずっとサティの暖かな毛皮が上下するのに身を任せていた。だが、常に無くサティの喉が鳴っていない。起きているのかもしれない。そう思って、ピウニー卿は思わず声を掛けてしまった。
かつての友に裏切られ、殺されかけた話をしたときのサティはとても苦しげで、ピウニー卿の心も痛んだ。
「なに、ピウニー」
「大丈夫か?」
「何が?」
「……」
「あー、ヒューリオンのこと?」
「ああ」
「ピウニー?……心配しなくても大丈……」
「大丈夫などと言うな」
「ピウニー、本当に、」
「こういうときに、大丈夫、などと言うなサティ」
「うん……。ピウ、心配かけてご……」
サティは何かを言いかけて、止めた。そして、
「心配してくれて、ありがとう」
サティはそれ以上何も言わない。そしてピウニー卿は、そんなサティを抱きしめたくて仕方がなかった。
人間になれば自分の手は、サティの細い手よりも大きい。一抱えで頭を抱えることができるし、抱きしめれば彼女の頭は自分の鎖骨に触れる位置だ。
それなのに、どうして今、自分はサティを抱き寄せることができないのだろう。小さなネズミの身体は、サティの毛皮に手を埋めることしかできない。
ピウニー卿がそんな風に思っていると、サティが黙ってピウニー卿に顎を摺り寄せた。喉がゴロゴロと鳴って、その音がネズミの小さな身体に心地よく響く。
猫とネズミでいるときは、なぜこんなにも距離が近いのか。
しかし、その近い距離が、今はひどく切なかった。