第3章 魔法使いの弟子

031.やり遂げた感満載で満足げ

「おはようございます、サティ……?」

「うあー……おはよ……、プリム」

「おはよう、プリムベル殿」

翌朝。

起きてから人間に戻った2人は、共に部屋から出てきた。朝が苦手なサティはピウニー卿の横で、あふ……と欠伸をしている。それを見ながら、ぎょっとしたプリムベルは眼鏡の位置を直した。まじまじとピウニー卿とサティを凝視し、もう一度ピウニー卿を見て、さらにサティを見た。2人はその視線に気付いていない。サティはピウニー卿の袖を引いている。

「ピウ、お風呂こっちよ」

「ああ。すまんが、プリムベル殿、風呂を使わせてもらってもよいだろうか」

「………………だ」

「だ?」

「誰ですか貴方ーーーーーーーー!?」

プリムベルは初めて(人間に戻った)ピウニー卿を見た。

サティの横に居る男は誰ですか。この妙に体格のいい無精髭の男は誰ですか。サティに腕を引かれている男は誰ですか。サティと一緒の部屋から出てきた男は誰で……はっ……今重要なことを……サティと一緒の部屋……ですって……? 朝から、サティと、一緒の、部屋から、出てき……ああ! しかも! サティは欠伸をしていましたわ! 眠いのですか、サティは眠いのですか。寝ていないのですか、寝ていないほど朝まで一体何を……、風呂が入る必要があるほど何を……って、何、やり遂げた感満載で満足げに無精髭を手でそりそりしてるんだこの髭男めがーーーー!

なお、ピウニー卿は何もやっていないことをその名誉のために付け加えておく。

しかし、プリムベルはそうは思っていないらしい。

「サ……サティから手を離してくださいましーーーー!!」

「ちょ、プリム……っ!」

プリムベルは再び欠伸をしたサティの腕を抱えるとピウニー卿から引き剥がし、ずささーーーーと後ずさりをしながら、廊下の向こうに消えていった。

「あ、おはようございます、サティさん、プリムベルさん。あの、洗面させていただいても……」

消えていく途中、客用の寝室からヴェルレーンが忌々しいほど爽やかな顔で登場した。

****

「プリムベル殿、驚かせてすまなかった」

「……」

サティは今、ジョシュの魔力抑制の魔法陣について再度解析を深めている。こういった解析についてはプリムベルの方が得意だったが、ジョシュの件に関しては他言していないために、理の賢者が帰宅するまでの間、サティが自ら行っていた。あまり邪魔をしたくないピウニー卿は、ヴェルレーンと共に馬の世話と剣の手入れ、剣の手合わせなどを行っていたが、丁度プリムベルが居間に1人で居るところを見計らって、やってきた。

「いえ……わたくしも取り乱しましたわ、……失礼いたしました」

「いや」

プリムベルは外していた眼鏡を掛け直すと、ピウニー卿から目を逸らす。こんな……こんな髭の男がサティの……。サティの?

「ピウニー卿!」

「な、なんだろうか」

「ピウニー卿は……サティとは、その、ど、どのような関係なのです?」

「え」

突然、力いっぱい迫られて思わずピウニー卿は仰け反った。このプリムベルという女性に、自分はなぜか快く思われていないらしい。好きな女の父親に嫌われてしまったときの気分とは、こういうものなのだろうか。例えば「お前なんかにうちの娘はやれん!」……というような。猫とネズミの姿だったときも、サティがピウニー卿を抱えているだけで咎め、先ほどは、2人で部屋を出てきたところを見られた上に何か誤解をされ、すごい勢いで引き剥がされてしまった。……いや、誤解……というか。なんというか。

「どのような関係」か……と問われると、ピウニー卿は答えに窮する。ピウニー卿自身の答えは簡単だ。だが、2人の関係は……と問われると、それはピウニー卿だけの一方的な気持ちで決められるものではない。サティは姿を変えたときは体温を求めるようにぴったりとくっついてくるのに、人間の姿に戻ったときにピウニー卿が距離を詰めようとすると戸惑ったように離れていく。

強引に抱き寄せ、そのまま奪い去りたいという気持ちに駆られたときも少なくない。しかし、1度だけ深く触れた唇に、サティは嫌がらなかった。思わず押し倒し、首筋の舌触りと柔らかな髪の香りを味わったところで時間切れになったことは、今だに忘れられず、サティを見るたびに喉が熱くなる。

ただ、そのとき、サティがどう思っていたか……というのを、ピウニー卿は果たして考えていただろうか。今更ながら、そのことに気付く。ネズミの時にあまりに距離が近いから、すっかり受け入れられていると錯覚しているというのは言い訳だろうか。いや違う。ピウニー卿の心に何かが引っ掛かった。何か、大切なことを自分は忘れている。

「……サティのことをお好きなのですか?」

「え?」

「なぜ、そのような意外そうなお顔をなさるのです」

「あ、……いや……」

あまりにも率直なプリムベルの言葉に、ピウニー卿は自分の顎を撫でた。「サティのことを好き」……か。当たり前だ。それ以外に、何があるだろう。しかし……。

「しまったな……」

ポツリとピウニー卿はつぶやいた。

自分はそれをサティに伝えていたか?

そうだ。言葉にすれば、それだけなのだ。簡単なことなのに、いい歳をして……いや、いい歳だからこそかもしれないが、そういった素直で率直で素朴な感情を、言葉で表現することを忘れていた気がする。いつも気がつけば柔らかな毛皮がそこにあったから、人に戻ったときの柔らかな身体があったから、自分の気持ちは最初から1つだったから……だから、何も言っていなかった。これは……。

なんという騎士としてあるまじき不覚!

「私は、サティにそのことを伝えていない」

「は?」

そうだ。伝えなければ……。ピウニー卿はガタンとソファから立った。だが、それに呼応するようにプリムベルも立ち上がる。ピウニー卿は立ち上がったプリムベルに向き合い、ぎょっとした。……なぜか怒っている。相当。

「ちょっと、ピウニー卿……それは、聞き捨てなりませんことね」

つ……と光る眼鏡を直す仕草が怖い。

「え」

「一緒に旅をしてどれほどと申しましたの?」

「あの……」

「その間変身するたびに? 裸で?」

「プリムベル殿……あの」

「あんなに切なげにサティのことを見てますのに?」

ピウニー卿の頬が赤くなった。

「貴方は好きでもない女性と、一晩同じ部屋で過ごすのですか!? それでも騎士ですか!」

一晩過ごしたのは不可抗力だし、寝ている間に人の姿に戻ってしまったことはあるが、人間の姿で一晩丸々過ごしたことは無い。誓って、無い。しかも、

「好きでもない女ではない! 私はサティをす……」

「でも、伝えてないのでしょう!」

「……そ、それは……」

「許せませんわ……」

プリムベルの声が低くなった。ピウニー卿は後ずさる。

「だったら一番最初に、私ではなくとっととサティに伝えてらっしゃい、玉砕するならその後でも遅くはないですわーーーー!!」

ピウニー卿はプリムベルに居間を叩き出された。いい歳した騎士が一体何をやっているんだかと思われても仕方があるまい。

それにしても。

え、いや

玉砕?

****

サティは中庭のテーブルセットに座っていた。

眼前の紙にはジョシュの魔力を抑制していた魔法陣が再生されている。見ているだけで魔力を抑制されそうだが、実際には魔法陣に対して魔力を込めては居ないので、効果は無いはずだった。堅実で基本に忠実な、それゆえ美しい構成だ。かなり真面目な人が組んだのだろうということが感じられる。

それにしても、これ程の魔法陣だ。組んだ人間の魔法語が組み込まれていてもいいはずだが、どこにも見当たらない。いや……、見当たらない……と思っているだけなのだろうか。それとも、自分の名前の魔法語も魔法の効果の一部として、組み込んでいるのだろうか。

「エドゥ・ユーク・ウロアナ・アーグ・イアギーヌ・イルスーク・イーラ……」

全て古代魔法語だ。この整いぶりは師匠である理の賢者が好む形に似ている。「知識と理を抑制する。苦悩も伴う。利益となりし時に……」と続くようだ。

サティは溜息をつき、魔法陣の描かれた紙をしまうと目を閉じる。

これ以上考えても仕方が無い。サティは別の懸念事項を……、ピウニー卿のことを思い浮かべた。

プリムベルを助けたときに、ピウニー卿はインプを一撃で倒していた。地面に落ちた時の頭部へのダメージが致命傷だったといえばそれまでだったが、今までに無い魔力が膨らむのをサティは感じている。剣が魔竜のものに変わったから、今までとの比較は難しいが……もしかしたら、ピウニー卿の魔力は強くなってきているのではないだろうか。

だとすれば……自分はどうか。サティは自分の首に掛かっている、緑色の石に触れた。そこにはサティの杖が納められていて、魔法によって杖の出力と石の出力を繋げている。杖を構えているときほど自然に……とはいかないが、集中すれば、杖を持っているときと同じような効果が得られる。

自分の魔力は果たして、どうなのだろう。

「サティさん」

「ヴェルレーン?」

サティは集中を解いた。

自分を呼ぶ声に顔を上げると、そこには蜂蜜色の髪に少し垂れ目気味の甘い瞳がよく似合う、チャラ……じゃない、爽やかな笑顔の騎士が立っていた。今はくしゃみはしていない。

「ピウニーと手合わせをしていたんじゃないの?」

「先ほど終わりましたよ。……全く及びません。さすが、ピウニー卿です」

確かにピウニー卿は強かった。杖と剣の賢者の館に居たときも、何度かヴェルレーンやラディゲ、剣の賢者とピウニー卿が剣を合わせているところを見た。剣についてはよく分からないサティにも、2人の騎士達が相当強いということは分かったが、ピウニー卿はそれ以上だった。剣の賢者とはほぼ互角。その様子は惚れ惚れするほどで、剣の賢者と手合わせをしている様子を見たときなど、ラディゲは大きく舌打ちし、ヴェルレーンはやたらと楽しげだった。

「くしゃみ出ないのね」

「プリムさんが、魔法をかけてくださいまして」

「ああ、プリムはそういうちょっと変わった応用がすごく得意なの」

ヴェルレーンは楽しげに頷いた。

「今朝は、大層怒っておられましたね」

「昔から、私に関してはよく分からない事で怒るのよ。プリムベルは」

「サティさんは……」

ヴェルレーンはサティの向かいの椅子を引いて、そこに座った。

「ピウニー卿のことをどうお考えなのですか?」

「え?」

なぜそこにピウニー卿の事が出てくるのだ。サティはうろたえて、ヴェルレーンを見た。その表情をヴェルレーンは楽しそうに見返して、小さく肩を竦めてみせる。何気ない仕草なのだろうが、妙に様になっていた。少し首をかしげて彼が微笑むと、その微笑みは、騎士に憧れる女性ならば誰もがうっとりとしてしまうだろう。残念なことに、変わり者の女魔法使い達にその効果はほとんど無かったが。

「なぜ、ヴェルレーンがそんなこと聞くのよ」

サティは、ちょっとムっとする。だが、そんなサティの視線もどこ吹く風。ヴェルレーンは、微笑んだまま、ふっ……と前髪を払った。

「だって、あのピウニー卿が弱い女性がいるなんて、こんなに面白いことは無いでしょう」

「面白い?」

「僕らの年代の騎士には、ピウニー卿は憧れの騎士なんですよ」

駆ける馬は青毛で賢いシャドウメア。呪文無しで魔法剣を操り、剣の腕も国の誰もがピウニー卿には及ばないほどだ。それほどの実力を持ちながら無冠を望み、国王の親衛隊として国中を旅する騎士。

若い騎士でピウニー卿に憧れるものは多く、ヴェルレーンもその1人だった。だからこそ、ピウニー卿探索の命を国王から直々に賜ったときの喜びは大きかった。ヴェルレーン自身にもピウニー卿が死んだなどという話は信じがたく、また死んで美談になるなどあって欲しくなかったからだ。

「そのピウニー卿が、1人の女性におろおろさせられている」

「お、おろおろなんてしてないわよ、あの人」

「そうなのですか?」

「そうよ。特に人間に戻っているときは」

はあ……とサティは溜息を付く。

おろおろなんてちっともしていない……とサティは言うが、ネズミの時はいつもおろおろとサティの周りを走り回っているようにヴェルレーンには見えた。ラディゲにサティが抱き上げられたときなど、相当見ものだった。だが、どうやらサティにとってネズミの時は、ピウニー卿のことを男として意識していないようだ。

ヴェルレーンは苦笑した。なるほど、自分は猫で相手は小さなネズミ。一日の3分の2はその姿で過ごしているのに、人間に戻って立場がいきなり変わるとそのギャップに戸惑うのだろう。だが、ピウニー卿にとっては心穏やかではあるまい。守りたいと思う女を守れる時間は、人間に戻っているたった8時間だけだ。

「ですが、ピウニー卿は貴女のことをお好きなのでしょう。ならば、サティさんも……」

素直に自分の気持ちに向き合ってみてはいかがですか……と、言おうとして、遮られる。

「待って」

「はい?」

「それは分からない」

「ええ?」

「言われたこと無い」

「ええええ?」

ヴェルレーンはぎょっとした。押し倒して3拍後にネズミに戻ったと思われるあの時も、ピウニー卿は自分の気持ちを伝えていないというのだろうか。あんなに分かりやすいのに? 人間に戻ったときはあんなにうっとりとサティのことを見つめているくせに? 少なくともピウニー卿はサティに自分の気持ちを伝えていて、サティがそれを受け止め切れていないのだと思っていた。

……だが、事実はそうではないらしい。何やってるんですか、ピウニー卿! 少なくとも気持ちを確かめていない相手を押し倒すなど……いや! 押し倒したかどうかは見てないので分かりませんけれども!

「だから正直にいうと態度だけで示されても、素直に受け止められない」

「ああ……なるほど……。……しかし、誰の眼にも明らかでしょう、あんな……」

ふむ……とヴェルレーンは口元に手を添えて、首を傾げる。

サティは俯いた。何度も思ってきた。考えてきた。

ピウニー卿に自分は大切にされていると、サティは思う。だが、どうしても不安なのだ。ピウニー卿とサティは恋人同士ではない。夫婦ではない。ただの旅の仲間だ。それなのに柔らかく、でも逃げられないように、愛し合うもの同士のようにきつく抱きしめられる。

抱きしめられる度に心臓は心地よく高鳴るのだ。だけど、そんな自分の感情にもピウニー卿の態度にも納得できなかった。まるで、雰囲気に流されているみたいで。

でも、やめてと言えない。いつだってピウニー卿は、サティが一番欲しい言葉をくれない。でも、聞けない。今の関係に納得しているわけではないのに、今の関係が壊れてしまう可能性が……

とても怖くて。

そんな、いろんな、「でも」や、「だって」が重なって、今まで来てしまったのだ。
サティは俯いたまま、溜息をついた。

「でも流されそうになるのよ」

「ピウニー卿のことを……お好きなのですね」

「きっと、そうなんだろうね……」

俯いた顔を上げて、あーあ……と空を仰ぐ。なぜ、ヴェルレーンにこんなこと言ってるんだろう。

「なら、サティさんから伝えればよいのではないですか?」

「え?」

「言ったもの勝ちですよ」

「言ったもの、……勝ち?」

「そうです。言わなくても分かるだろうとか、言わなくても分かって欲しいとか、そういうのは幻想です。最初からそれを相手に望んではダメなんです。言わなくても分かるのならば、好きだ……なんて言葉、生まれないでしょう」

ヴェルレーンは、ふふ……と笑った。垂れ目が穏やかに細まり、口角が笑顔の形に上がった。眩しい笑顔である。

「他の言葉なら伝えることができるのに、『好き』だという言葉を、みなさんなぜ躊躇うんでしょうね。僕はとても不思議です。一番重要な局面で、一番忘れてはいけない言葉なのに」

サティは少し驚いたような顔をしてヴェルレーンを見返した。女性と見れば「綺麗ですね」「素敵ですね」という言葉が出てくるヴェルレーン。この男が言うと妙に憎めない理由が、ちょっとだけだが分かった気がする。もしかして女性にモテる……というのは、この顔のせいだけじゃないのかもしれない。

言ったもの勝ち……。自分がピウニー卿を好きって言ったら、彼はどんな顔をするだろう。自分達の関係は、どこか変わるだろうか。

少なくとも自分も大して素直になっていないのに、人間に戻ったピウニー卿に気持ちを言って欲しい……などというのは一方的だ。自分だけがあたふたとさせられるのも悔しかったし、言ったもの勝ち……というのならば、勝ってやろうじゃないか。だって、いつだって慌てふためいているのは自分なのだ。

「そっか。……よし」

サティは立ち上がった。

「サティ!」

同時に中庭の向こうから、ピウニー卿が駆けてくるのが見えた。