第3章 魔法使いの弟子

032.意外とえげつない

好きな女に自分の気持ちを伝えるというのは、いくつになっても心が浮き立ち緊張するものだ。若い頃であれば、勢いに任せていくらでも言葉に出来たかもしれない。だが、年齢を重ねれば、気恥かしさや、理性にも似た妙な自負が邪魔をして、つい忘れがちになってしまう。

ピウニー卿は、一緒に過ごした時間と距離に甘えて、自分の気持ちをサティに伝えていないことに気付いた。それに気付けば居ても立っても居られなくなる。プリムベルから勢いよく居間を追い出された後、まっすぐ中庭までサティを探して、やってきたのだ。

「サティ!」

「ピウ?」

「おや、ピウニーきょ……」

サティと話をしていたヴェルレーンは、自分が標的にされていることを知った。サティの事以外は、いつも温厚で冷静なピウニー卿が、ヴェルレーンを取って喰わんばかりの形相でこっちを見ている(ように見える)。なぜ、自分を……ああ。

「サティ、ヴェルレーンと話の途中か?」

「え、いや? もう終わったけど、あの、なんか怒ってる?」

「怒ってはいない……」

怒ってはいないかもしれないが怖い。ヴェルレーンはこれ以上ピウニー卿を刺激しないようにじりじりと後退した。

「あ、の、ピウニー卿、僕は別にサティさんと何も話していませんよ!?」

「ああ」

「と、とにかく僕は用事思い出しましたので!」

これ以上邪魔をしたら……いや、決して邪魔をするつもりはないのに激しい誤解を受けそうだ。そしてその誤解は命を危うくする。ヴェルレーンは回れ右をして、ピウニー卿がやってきた方向へと駆けていった。

中庭にはサティとピウニー卿の2人になった。

「ピウ? どうかしたの?」

「サティ……!」

ピウニー卿はサティを思わず抱きしめそうになり……すんでのところで手を止める。ここで抱きしめたら今までと同じだ。それに抱きしめたら顔が見えない。ピウニー卿はこほんと1つ咳払いをして、サティに向き合った。

「サティ……話がある」

「ええ、ピウニー。私も」

「サティも?」

「ん。でも、ピウから話していいわ」

「そうか。……ならば、」

ピウニー卿はサティーの肩をそっと掴んだ。片方の手で思わずその頬に触れる。しっとりと柔らかい。剣を持ち慣れた自分の手では、その柔らかい皮膚に傷を付けてしまいそうだ。急にそんな風に思えて、いつもよりも繊細に撫でた。

そんなピウニー卿の手の動きに、サティの心臓がとくんと小さく跳ねる。こげ茶色の瞳を見つめ返すと、その色はとても真剣で、真っ直ぐで、自分の気持ちを伝えたいサティにとって、どんな視線よりも魅力的で吸い込まれそうだった。

「サティ……」

ピウニー卿の低音の声がサティの名を呼んだ。自分を見上げるサティの大きなグリーンの瞳。猫とネズミの姿で出会ったときから、その色を綺麗だと思う気持ちは変わらない。それに恋慕の情が加わったのはいつからだろう。その瞳を離すつもりの無い自分に、気付いたのはいつからだろう。ピウニー卿は愛しげに、サティの頬に添えた指をそっと滑らせる。

「今まできちんと言葉にせずにすまなかった。……サティ……俺は、お前がす……」

好きだ、愛してる……と言おうとして、なにやらサティ以外の視線を感じたピウニー卿は、つい……と横を振り向いた。つられたようにサティも振り向く。

「こ、ここここ、理の賢者殿っ!?」

「し、師匠っ!?」

そこには白い長いお髭を蓄えたご老人、理の賢者が立っていた。2人の動きが固まった。

「ふぉふぉふぉ、気付かれてしもうたのう。かまわんかまわん。ほれ、続きじゃ続き。ほれほれ」

「いや、あの」

「む。どうした、いいんじゃよ。ワシのことは気にせんでもいいんじゃよ」

気にするなという方が無理な話だ。しかも、気にしなくてもいいといいつつ理の賢者は続ける。

「ふぉふぉふぉふぉふぉ、それにしてもサティや、ピウニー卿もよう来たのう」

今日だけは、今回だけは言わせて欲しい。

師匠、邪魔(白目)

……などとは、もちろん口が裂けても言えず、サティは自分がこれから生み出そうとしていた状況の、恥ずかしさだけが込み上げてきたのだった。しかもピウニー卿からの話は一体なんだったのか分からない上に期待だけしてしまったまま、彼はまだサティの肩を抱き頬に手を充てている。サティは誤魔化すように問いかけた。

「あああああの、師匠、先ほどお帰りですか? 奥方はお元気そうでしたか?」

「そうじゃそうじゃ。ああ、元気そうじゃったよ。相変わらずじゃ。ところで、ピウニー卿や、話の続きは? サティも大丈夫かの」

「え、あの、はあ、それはまた後で……」

「そうか? 残念じゃのう……。ならば、ワシから話があるんじゃが、かまわんかの」

「話?」

「おうおう。このワシになんと王様からお呼びがかかってのう」

「……国王陛下から?」

驚いた声はピウニー卿だ。ピウニー卿はサティの頬から手を離す。

こんなときなのに、サティはピウニー卿の手が離れたことに名残惜しさを感じていた。それに、国王の話に反応したピウニー卿に何故か胸が痛む。恐らく、ピウニー卿が騎士となって国王の元にはせ参じること……それが不安なのだ。重症すぎるな……と、サティは思う。

結局話は一時中断され、ピウニー卿もサティも理の賢者の話を聞くこととなった。

その様子を見ながら、中庭の向こうから伺っていた2つの影が溜息をつく。

「……あれ、絶対わざとですよね……」

「お父様はああ見えて、意外とえげつないことをいたしますの」

プリムベルが眼鏡の位置を直しながら頷いた。

剣の賢者といい理の賢者といい……オリアーブの賢者は、絶対に敵にまわしてはいけない……ヴェルレーンは固く心に誓った。

****

「バジリウス宰相」

「ジョシュ殿下。ヴィルレー公爵令嬢も。ご一緒でしたか」

「ごきげんよう、バジリウス様」

「ごきげんよう、ヴィルレー公爵令嬢」

今日はセラフィーナがヴィルレー公爵と共に、ジョシュの元に見舞いに来ていた。ジョシュは自室でセラフィーナと歴史の本を読みながら、サティの思い出話をしていたところだ。そこにバジリウスが訪ねてきたのだった。

バジリウスはよくこうして、ジョシュのところにやってくる。やってきては、現在の国の情勢や国王の仕事の様子などを伝えてくれるから、ジョシュとしてはとてもありがたい。学術指南役のヴィルレー公爵の計らいで、政治学などを教授してくれた時期もあり、時折、ジョシュに対して意見を求めてくることもある。その意見が採用されるわけでもなければ、何かの参考にしているわけでもないのだろうが、ジョシュにはそれが楽しかった。

「ヴィルレー公爵は陛下のところですかな?」

「うん。もうすぐ戻ってくると思うんだけど、少し遅くなっているようだね。ペルセニーアが戻ってきたら、セラフィーナをヴィルレー公爵のところに送って行ってほしいのだけど」

「ならば、私がお送りいたしましょう」

「お願いしてもかまわない?」

「ええ。ヴィルレー公爵令嬢、私がエスコートしても?」

「もちろんですわ、バジリウス様」

セラフィーナは恭しく手を差し出したバジリウスに自分の腕を預けた。セラフィーナは幼いながらも、仕草は立派な淑女だ。そうした小さな淑女の姿は王宮の人達を大層喜ばせている。

こうして、世にも珍しい至極真面目な顔をしたバジリウス宰相とかわいらしいセラフィーナとが、2人並んで王宮を歩くという姿が見られることになった。

「ジョシュ殿下の調子はいかがでしたか? ヴィルレー公爵令嬢」

「セラフィーナでかまいませんわ、バジリウス様。ええ、今日はとってもお元気でいらっしゃいました。最近調子がよいようで、とってもよかったですわ」

「そうですか。それはよかった」

セラフィーナの7歳とは思えない可愛らしいいい様に、いつもは飄々としているバジリウスの顔も思わず綻ぶ。ふと、足を止めて小さなセラフィーナをバジリウスは見下ろした。

「セラフィーナ様。貴女は、本当にジョシュ殿下を大切に思っていらっしゃいますな」

「まあ、当たり前ですわ。どうかなさいました?」

「いえ。……セラフィーナ様。1つ、おまじないをお教えてしましょうか」

「なんでしょうか」

セラフィーナはバジリウスを見上げ、グレーの瞳を不思議そうに瞬かせた。首をかしげて、にっこりと微笑む。

「エーサワィヒス・オ・イエトゥーナ……と、言います」

「……エーサワィヒス・オ・イエトゥーナ? なんのおまじないですか?」

不思議で穏やかなその旋律を聴いて、セラフィーナの表情が不思議そうなものに変わった。その表情の移り変わりを眺めながら、バジリウスの口調は相変わらず淡々としていたが、冷たいものではない。

「今は申し上げられませんが、本当に必要なときには、きちんと思い出すことができますよ」

「本当ですか? でも、いつ必要になるのでしょう」

「セラフィーナ?」

ヴィルレー公爵の声が聞こえて、セラフィーナとバジリウスの会話が中断された。2人は声のするほう顔を向ける。

「お父様!」

「フィーナ。……バジリウス宰相、わざわざセラフィーナをこちらへ?」

「いや、ジョシュ殿下のところに赴いたときに、丁度ヴィルレー公爵のところにお送りするところだと聞きましてな」

「ありがとうございます。……フィーナ、宰相閣下にお礼を」

「送っていただいてありがとうございます。バジリウス様」

セラフィーナの淑女の一礼にバジリウスは頷き、ヴィルレー公爵といくつかの世間話をして、執務室に戻っていった。

****

「バジリウス様……」

執務室に戻ってきたバジリウスに、部屋の奥から掛けてくる声があった。

「ヒューリオンか」

「はっ……」

「何か変わったことでもあったか」

「変わったことというわけではありませんが、妙な噂が」

「妙な噂?」

「はい。ピウニーア・アルザス卿が、生きている……などと」

「ほう。あのピウニー卿が?……よろこばしいことではないか」

皮肉ではなく、バジリウスは心からそう言っているようであった。

「白翼と黒翼から、騎士が1名ずつ探索に出向いている……とか。1人は王命、1人は独断だそうです。あくまでも、噂ですが……」

「ああ、それで、黒翼からは騎士が1名行方不明……か」

「行方不明?」

「ああ。ラディゲ・ラファイエット。魔竜の討伐を提言した騎士だったな。ピウニー卿ほどではないが、彼も優秀な騎士だ」

「魔竜……」

聞こえてくる声が、僅かに動揺したように低くなる。その声色の変化にバジリウスは気付いたが、特に気に留める風でもなく続けた。

「陛下も最近の動きに気付いたか、理の賢者を召喚したようだ」

「理の賢者を……?」

「ああ」

「バジリウス様は、ご存知なかったのですか?」

「陛下の独断のようだ。昨日、知れた」

「何のために?」

「さあ。陛下の御心までは分からん。だが……」

「理の賢者は、応じるのでしょうか」

「もう応じたそうだ。すぐにでも王宮に来るだろう」

「……バジリウス様、それは……」

「そうだな。チェックメイトだ」

バジリウスの瞳が懐かしげに細められた。その心内はヒューリオンにも読むことが出来ず、ただバジリウスは窓の外を眺めている。

極僅かだが、静謐な魔力が執務室に沈んでいた。