「師匠、王様のところに行く……というのは……」
「ふうむ。先日、陛下のところからワシの下に書簡が届いてのう。ジョシュ殿下のことで相談したいとのことじゃ」
「王子の魔法陣は……」
「解析か? 概ね終わったのう」
ピウニー卿とサティは顔を見合わせた。ジョシュ殿下の事……となれば、心当たりは1つしかない。「魔力抑制」の魔法陣。サティが理の賢者に依頼していた解析が終わった……ということは、国王の下に行く用件はやはり、魔法陣のことなのだろうか。サティは質問を変えた。
「ジョシュ殿下の魔法陣は……どういったものだったのですか?」
弟子の質問に理の賢者は長い髭をつるりと撫でる。
「ふぉふぉふぉ……。まあ、大体がサティの見解通りじゃったわ」
理の賢者は言葉を濁したようだ。解析が終わっているのに、その全貌を語らない。こういうときは、恐らく理の賢者には全てが知れているのだろうが、どれほど食い下がっても教えてくれないはずだ。サティはそれ以上の追撃を諦め、口を閉ざした。だが、ピウニー卿は怪訝そうに問い直す。
「……サティの? 一体あの魔法陣は誰が……」
「ピウニー」
サティがピウニー卿の腕を引いて、咎めるように瞳を見上げた。追求しても無駄、という視線を受けて、ピウニー卿は何か言いたげだったが、小さく頷いてそれ以上聞くのをやめた。代わりに別のことを問う。
「賢者殿、王都には私達も行っても?」
「もちろん、そのつもりじゃよ。じゃが、ピウニー卿や。おぬしは、その姿で行けば無事が知れてしまうが、どうしたもんじゃろう」
「?……でしたら、ネズミと猫に戻ってからにいたしましょう」
「ほほう? ふむ……それでよいのかの? ならば一緒に王都に参ろうか」
理の賢者は、少し不思議そうに首を傾げたが、やがてゆっくりと頷いた。
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理の賢者が国王を訪ねてくる……という話は、瞬く間に王宮に広まった。理の賢者は国王と親密でありながら、滅多にその召喚には応じない。かろうじて魔法師団や魔法研究所の伝手で依頼を受けることがあっても、極僅かであり、それすら本人が出て来ることはほとんど無い。気まぐれといってもいい。まして、国王の命令などで動くことは無い。その理の賢者が、国王の召喚を受けた……という。
その話を聞いてまず驚いたのは、アルザス家の2人とヴィルレー公爵、そして、ジョシュだった。
アルザス家の2人の脳裏に浮かんだのは、ピウニー卿とサティ……そして、ジョシュの魔力抑制の魔法陣についてだった。
ヴィルレー公爵とジョシュの脳裏に浮かんだのは、もちろん、サティのことである。
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ピウニー卿とサティは、理の賢者と共に謁見の間に通された。サティには初めての、ピウニー卿にとっては懐かしい空間である。サティは今、理の賢者の肩の上に。ピウニー卿は姿が見えないように、理の賢者のフードの中に隠されている。
玉座には国王らしき人が座っていた。青紫色の瞳に褐色の髪の美丈夫だ。中年ながら引き締まった体躯で、漂う魔力も存在感も国王というだけの威厳が備わっている。ただ、怖そうな人ではない。溢れる威厳を抑えるのは、温厚そうな瞳だった。
そして、その隣にはジョシュが座っている。普段はほとんど表に出てこないが、ここ最近調子がよいからか、是非謁見の間で理の賢者に会いたいと、皆の反対を推して出てきたのである。国王はそれを許した。歩く速度はゆっくりだが、顔色もよく、しっかりとした表情だ。
理の賢者の肩に乗っているのがサティだと知れたときは、思わず顔が綻んだようだった。サティはジョシュと瞳が合って、尻尾をぱたんと動かしてみせた。その様子にジョシュが微かに笑ったが、もちろん、声には出さず静かに国王と理の賢者の会話を聞いている。
「久しいのう。ジェレシス陛下」
「お久しぶりです。理の賢者殿。……こうして召喚に応じていただき、感謝いたします」
「ふぉふぉふぉ……。一国の王ともあろう方が、このような老人めに頭を下げてはならんのう。……ジョシュ殿下においても、お元気そうじゃの」
「お久しぶりです。おかげさまで、最近はとても調子がよく、助かっております」
「ふぉふぉ。『おかげさまで』と言われる覚えは、わしにはないのじゃが、まあなによりじゃわい。ところで……」
理の賢者は飄々とした態度を崩さず、膝を付くこともなく、国王に向かい合っている。国王の周辺には宰相、黒翼騎士団団長、そして白翼騎士団団長などが控えているにも関わらず、誰一人として理の賢者の態度に口を挟むものも咎めるものはいない。ごく当然のように国王もそれを受け止め、疑問に思うものは誰もいない。
「わざわざ、ジェレシス陛下がこのような謁見の間にわしを呼んだのは、どういった用件かのう」
理の賢者の言葉に、国王が答える。
「理の賢者殿に……、我がオリアーブ国王太子ジョシュの後見人になっていただきたい」
バジリウス宰相の眉がぴくりと動き、周囲がざわついた。ジョシュも驚いたような顔をして国王の横顔を見ている。ただ1人、驚いたような表情をしていないのは国王のみであった。いや、正確にはバジリウス宰相も無表情ではあったが、この宰相の場合は普段から表情があまり豊かでは無いため分かりにくい。
オリアーブの賢者には正確には国王から何らかの位を与えられているわけではない。言ってみれば無冠の存在だ。ただ、その存在は国王という地位と同様に普遍のものであり、誰もが知っている地位である。その賢者の1人「理の賢者」が王族の後見人になったことは、これまでに無い。
その例外を理の賢者が引き受ければ、ジョシュが王太子である……ということは、誰もが認めざるを得ない揺ぎ無いものになるだろう。これから生まれる子供が王子であろうと、ジョシュの身体が弱かろうと、ジョシュは王太子となる。それは宮廷のどの貴族がジョシュの後見人になるよりも貴族達を黙らせるだろうが、剣も魔法も持たないジョシュにとっては逃げ場の無い負担になるはずだ。
話の重さを感じさせぬ風に、理の賢者がふぉふぉ……と笑った。
「ふむ……その話は、別の部屋でしようかの」
謁見の間でのそれ以上の国王の言及を遮り、理の賢者とサティ、ピウニー卿は別の部屋へと通された。
****
国王と理の賢者は、2人きりで応接室へ入ってしまった。防魔の結界が張られ、外側から魔力による干渉を受け付けなくしている。控え室のソファにはサティと、そのサティの首元に隠れたピウニー卿の2人だ。
「ピウ、王様に会わなくてもいいの?」
「うむ……。理の賢者が、今回の用件はジョシュ殿下のことだと言われたのだ。仕方があるまい」
「うん……」
「それに、陛下には呪いが解けてから謁見すると決めている。今の姿では会えぬし、ヴェルレーンの面目も立てねばならんからな」
唐突に帰宅した理の賢者は、サティとピウニー卿が猫とネズミに変わる瞬間を見届けると、そのまま王宮に入った。……ちなみに、王都からここまで、理の賢者の転送魔法であっという間に連れてこられたのには参った。サティには到底できる芸当ではない。一体どういう仕組みになっているのかは、全くもって不明だ。そもそも、そんな魔法があるならあんなに大変な旅は……と思ったが、いや、何も言うまい。あれがあったからこそ、今の自分達があるのだから。
「そういえば、ピウ。何か私に話があったんじゃないの?」
「ああ……」
サティに言われて思い出した。ピウニー卿はサティに自分の思いを言葉にして伝えようと思っていたのだった。だが、今の姿で伝えるのは躊躇われた。どうせならば、人間の姿でサティをこの腕に抱いたまま、伝えたい。
「いや……理の賢者殿の用件が終わってからで構わない。そういえばサティ、サティも何か話があったのではなかったか?」
「あ……。うん……。それも、後ででいいよ」
図らずも、サティもピウニー卿と同じことを考えていた。こんな(ネズミから見ると)数倍大きい猫の姿で伝えるよりも、人間の姿で伝えたいと思うのは、ささやかな女心というものだ。
「ジョシュ殿下に会えるかな……」
サティがソファに丸くなったときだった。ピウニー卿の髭がぴんと真っ直ぐになった。ピウニー卿はすっくと立ち上がり、その気配にサティも身体を起こす。耳を前に向け、気配を伺う。何者かに見られているようだ。ピウニー卿が剣の柄に手を掛け、鼻をひくつかせた。気配は向かいのソファからだ。サティはトン……とテーブルの上に移動する。
「サティ……待て!」
ピウニー卿の声に、サティは思わず前に出てしまった前足を止める。
「サティ……?」
サティの名前を呼ぶ声が、聞こえた。
それは、ピウニー卿の声ではなく、ねっとりと柔らかな、女の声。
「ねえ、もしかして、サティなの?」
「ヒュー……リオン……?」
サティの掠れるような震えるような声に、呼応するように笑い声が聞こえる。サティの足が少し下がった。ピウニー卿が隣に並ぶ気配に気付いて、サティはピウニー卿を隠すように前足を出した。ピウニー卿の身体が、サティの前足に触れると、その身体が極度に緊張しているのが分かる。……ソファの下から気配を現したのは。
「そうだよ、ヒューリオンだよ。……久しぶりだね、<アヌ・クィツグ・オ・サティ>(愚かなサティ)」
サティに向かい合った気配は、確かにあの魔法使いの声だった。その声が放った魔法の言葉に、セピア色の毛皮がゾクリと逆立つ。
2人の眼前にいるのは、
濃茶色の毛皮の、
オコジョだった。