ヒューリオン……と名乗ったオコジョと、毛を逆立てている猫のサティが向き合っている。緊迫した空気の中、まず口を開いたのはピウニー卿だった。
「ヒューリオン……オコジョ?」
ヒューリオンというのは、サティと魔竜に呪いを与えた魔法使いだ。サティを裏切ったという、かつてのサティの友。それは女だったのか……という思いが一瞬、騎士であるピウニー卿の脳裏に浮かび、すぐに消えた。たとえ女であったとしても、サティの敵ならば……。
ピウニー卿は、再び剣の柄に手を添えて構える。それを見て、ヒューリオンはふん……と瞳を細めた。細長い身体を上へと伸ばし、ピウニー卿を不敵な目元で見下ろす。
「……つまらないネズミなどを従えて、サティ……君らしくないね。ねえ、こんなところで何をしているの」
「……ヒューリオン、死んだんじゃなかったの……?」
「死んでいてほしかった?」
「どうしてそんな姿で……」
「貴方も同じでしょ?」
ヒューリオンがオコジョの丸い顔を傾げてみせる。外見が可愛いだけに、邪悪な声と口調が憎らしさを煽るようにピウニー卿には思えた。
「私も同じ……って、私は貴方の呪いを受けてこうなった。その呪いの直前、貴方の魔力は全て私が奪っていたはず。……それで、それ以上の魔力を貴方は使って……」
「でも、死ななかった。貴方が私の呪いを弾き返したおかげでね」
あの戦いで、ヒューリオンの魔力は全てサティに封じ込められた。だが、魔法使いというのは魔力を使えなくてもまだ体力を魔力に変換し、魔法を使うことができる。ヒューリオンは自身の体力を削ってもなおサティに攻撃し、それによってサティの杖は折れたのである。
サティの杖を折ったものの、ヒューリオンの身体は無事ではすまなかった。急速に奪われていく体力の中で、ヒューリオンは最期の力を振り絞って、……あの呪いを唱える。その一部をサティが弾き返したのだ。そして、ヒューリオンにも同じ呪いが掛かった。
その呪いでサティの魔力は全て押さえられ、全く質の異なる魔力に塗り換わった。そして、それはヒューリオンの魔力も同じだ。ギリギリのところで、全く質の異なる魔力が身体を満たした。それはヒューリオンの体力の減少を食い止め、生き延びる力になったのだ。こうしてヒューリオンもサティと同じく、小さな獣へと姿を変えた。
「……そう。私は……」
てっきり、自分の力で、ヒューリオンを殺してしまったのかと思っていた。この奇妙な安堵感はなんだろう。愚かで都合のいいことかもしれないが、サティはヒューリオンが生きていることに、ほっとしたのだった。その様子を見て、サティの顔を覗き込むように、ヒューリオンは丸い瞳を細める。
「随分余裕だね、サティ。本当に腹立たしい。……なんでお前が、私の師匠の……」
「あなたの、師匠?」
「ヒューリオン?……誰と話している」
「バジリウス様」
カタン……と部屋の扉が開き、別の声が聞こえてきた。近づく足音に、サティは頭を低くする。小声で「乗って」……と。ピウニー卿はサティの頭によじ登るが、それを見ていたヒューリオンがサティの喉下に飛び掛った。
サティはそれを間一髪のところで避け、後ろに跳び退る。途中で大きな人間の影にぶつかり、その手が追いかけてきたが、それも避けて部屋の隅まで駆けていき、鏡台の下に飛び込んだ。
「理の賢者殿の所の、猫……か。ヒューリオン、知り合いなのか」
「あれは……あれが、第5師団で私の呪いを弾き返した……」
「ああ。なるほど……。元は人か……ということは……」
足音と気配が近づいてくる。
「ヒューリオン、私とお前の関係がたった今、知れてしまったということか」
「……バジリウス様……」
「まあよい。隠しているわけでもなく、少し調べれば分かることだ。だが……」
足音が、止まった。
「今は黙っておいて貰わなければなるまいな」
隠れている箇所からピウニー卿とサティはずるずると後退する。不味い、このままでは2人とも捕まってしまう。正体が知られて不味いのはどっちだろう。どちらかが捕まるとすれば……それは……。
「サティ、」
ピウニー卿の声を最後まで聞かずに、サティはぶんっ……と頭を振って、ピウニー卿を自分から振り落とした。ピウニー卿の小さな身体は簡単にサティの頭から離れ、ころんと後ろに転がる。
<イアネク・アヘティク・イ・エマト・ウロアマ……>
(踏み越えられぬ、境界を張り……)
<ピウニーア>
(……ピウニーアを守護せよ)
サティがバジリウスには届かないほどの小さな声で呪文を唱えると、首にかけている緑色の石がふわりと光った。そこに封じ込めている杖の効果だろう。最後にそっとピウニー卿の名前を唱えると、2人の間に透明の薄い壁ができる。
「サティ、何を……!」
トン……と、サティが薄い壁を押すと、ピウニー卿ごとそれが後ろに押されて転がる。鏡台の下に男の腕が伸びてきて、サティの身体を掴んだ。
「サティ!……ダメだ!」
それでもサティは何かを訴えながら、捕まるまいと暴れていた。暴れていたが、所詮は猫だ。サティの身体は何者かの手に掴まれたまま連れて行かれた。ピウニー卿はサティを追いかけたが、見えない壁に阻まれる。ドンドンと見えない壁をピウニー卿は叩いたが、全く微動だにしない。サティの声は聞こえないから、ピウニー卿の声も向こう側には聞こえていないのだろう。
「くそっ……なんだこの壁は、サティ!」
男の気配が遠ざかっていく。ピウニー卿は剣を抜いた。抜き様の一閃で壁を斬る。
パチン……!
剣は弾かれ、魔力の壁は破れない。……壁を破れるほどの魔力でなければダメだということか。ピウニー卿は自分の剣に魔力を込める。恐らく、自分の魔力ではサティのそれを上回ることはできないだろう。ならばサティを超える魔力を呼び出すまでだ。躊躇うことなく、呪文を唱える。
<ウィロー・ナ・ムラン・イアディ>
(偉大なる魔の竜の)
<オウィクーブ・オーン・アナクーユ・エーク・オ・ピウニーア>
(勇敢な炎よ、ピウニーアの剣に宿れ)
ピウニー卿の剣に青い炎が一瞬燃え上がり、刃に吸い込まれていく。それが完全に吸い込まれる前に、ピウニー卿は剣を構えたまま身体ごと壁にぶつかる。ミシ……と僅かにそこに綻びができ、その綻びを手がかりに、剣をさらに横に動かす。そのまま力任せに壁を裂くと、ようやく外界の音が聞こえた。
慌ててピウニー卿が鏡台の下から出て行くと、バタン……と扉が閉まったところだった。
「……サティ……くっ、無茶な真似を……っ」
ピウニー卿は一瞬、理の賢者と国王が入っている応接室の扉を見た。恐らく2人はまだしばらく出てこないだろう。出てくるまで待つことは、とても出来ない。それに扉ごと防魔の結界が張られている。理の賢者の結界はマハの剣でも破れないだろう。だとすれば、選択肢は一つだ。
ピウニー卿はバジリウスが出て行った扉を睨んだ。四肢を思い切り伸ばして、その扉へと駆けていく。自分の体重では恐らく、扉は開くまい。ピウニー卿は剣を抜くと、口に柄を咥えた。人の姿では無理だろうが、ネズミの尖った口元ならば安全に咥えることが可能だ。ピウニー卿は扉と壁の境目を見上げ、そこを思い切り駆け上がった。幸いなことに引っかかりの多い壁は、楽に登ることができる。
ピウニー卿は扉の閉まり金具の少し上まで登ると、扉と壁の隙間に剣を差し入れた。ネズミサイズの剣はその隙間にピタリと入り込む。まだ刃に残っている魔竜の炎の魔力に、ピウニー卿自身の魔力を込める。剣の柄を握ったまま、トン……と壁から足を離した。
……ガキン……!
剣の刃がピウニー卿を引っ掛けたまま滑り落ち、扉の閉まり金具に引っかかる。だが……。
「頼む……!」
<オウィクーブ・オーン・アナクーユ!>
(勇敢なる炎よ!)
ピウニー卿の呪文と魔力に呼応するように、トクンとマハの剣が脈動し、脈動と同時にバキ……!と甲高い音がして金具が外れた。留めるものが無くなった扉はキイ……と開く。
「おい、扉が勝手に開いたぞ?」
「変な音も……ん?」
外に待機していた護衛騎士らしき人間が、扉の側にやってきた。扉を開くと中を覗き込む。
「うわっ、なんだっ……!?」
「おい、どうした?」
「いや……」
騎士は、自分の身体を何かが這ったような心地がして、慌ててきょろきょろと自分の身体を見下ろす。だが、そこには何も無い。部屋の中にも特に怪しいところは無いようだ。ここは先ほどまで理の賢者が控えていた部屋である。確かバジリウス宰相が、賢者の連れてきていた猫を、許可を得ている……と言って、どこかに連れて行った。扉が壊れてしまったのが腑に落ちないが、ともあれ、2人の騎士は扉を閉めるとそこが開かないように身体を置いた。
2人の騎士は扉と部屋に気を取られ、足元を駆けていく金色のネズミにはとうとう気付かなかった。
****
ジョシュは自室でそわそわと落ち着かなさげだ。サティに会えるかと思っていたのに、なかなかその機会が与えられず、謁見の間でちらりと見かけただけだった。サティは本当に理の賢者を連れてきてくれた。そう思うだけで、ジョシュは嬉しくなる。
国王が召喚したというから、魔力抑制の事とは関係ないかも知れないが、それでもサティが理の賢者と共にいる様子を見ると、幻のようだったあの夜が、急に現実めいたものに思えるのだった。
「……やっぱり僕、会いに行ってみる」
「ジョシュ殿下!」
立ち上がったジョシュをたしなめるように、入り口に控えていたペルセニーアが近づいてきた。
「ジョシュ殿下、お気持ちは分かりますが、いくら殿下でも陛下の許可無く陛下のお客人に会うことは」
「……うん、分かっているけれど……」
ジョシュは困ったような顔で扉まで歩き、そこを開いた。ペルセニーアも後に続く。部屋から出さないというわけではないが、ジョシュがもし無茶をしようとしたらすぐに留めなければならない。部屋の入口でペルセニーアを見上げたジョシュは苦笑する。
「分かってるけど、どうしても会いたいんだ」
「すぐにお会いできますよ」
「そうだろうか……」
ジョシュはしゅん……とした。確かに話は「ジョシュの後見人に」という話だった。それだけでも意外で、荷が重い話だ。だからこそ、サティに会って話をしたかった。ジョシュは、何かを決めたように顔を上げる。
「やっぱり僕……」
「ペルセニーア!」
何かを言いかけて顔を上げたとき、小さいが朗々とした声が聞こえた。傍らに控えている侍女達が怪訝そうな顔できょろきょろしている。ペルセニーアがハッとした顔で、扉を閉めた。
「ジョシュ殿下、すみませんが人払いを……」
常に無く低く切羽詰った声色を聞いたジョシュは、すぐに侍女達に下がるように命じる。侍女達が全員外に出て行ったところで、ペルセニーアがジョシュの部屋の扉を閉め、あたりをきょろきょろと見渡した。
「……兄上?」
「……あに、うえ?」
「ペルセニーア……!」
声が聞こえてきたのは、ジョシュの足元だった。見下ろすと、そこには金色の毛皮のふっくらとしたネズミが一匹。腰に小さな剣を吊るした姿で立っていた。ペルセニーアもジョシュも、その側に膝を付く。
「兄上……どうしたのですか、サティ殿と一緒に居たのでは……」
ピウニー卿はペルセニーアの身体を駆け上がると、ジョシュに聞こえぬようそっと耳打ちした。
「……ペルセ、私をバジリウスのところに連れて行ってくれ。連れて行ってくれるだけで構わない、後は私がやる」
その内容にペルセニーアは声を落とし、「申し訳ありませんが、殿下……少し、御前を失礼いたします」……そう言って、王子の前を退出しようとする。だがジョシュはそれを許さなかった。
「待って、ペルセニーア、そのネズミは誰? 僕にも話を聞かせて」
「……殿下、しかし……」
「お願いだ。ペルセ……!」
ペルセニーアは僅かに瞳を苦々しげに歪ませると、やがて観念したように肩にいる兄の名を呼んだ。
「兄上」
「ああ……、取り乱してすまない……」
呼ばれて、ジョシュの前に金色の毛皮のネズミが現れる。ペルセニーアは、ピウニー卿をサイドテーブルの上に乗せた。その傍らに膝を付いて、話の続きを促す。
「宰相閣下のところへというのは……?」
「私の足では執務室までは遠い。何か用事にかこつけて、執務室に入るだけでかまわない」
「どういうことですか?」
「サティがつかまってしまった」
ピウニー卿は苦しげに言った。
ペルセニーアは冷静だったが、ジョシュはその人物の名前に驚きを隠せなかった。思わずテーブルに両手を付いて、ピウニー卿に食い下がる。
「サティが、バジリウス宰相に……?」
ピウニー卿のこげ茶色の瞳が鋭くジョシュを見上げ、強く頷いた。ジョシュはピウニー卿をすくいあげると立ち上がる。
「……ペルセニーア、僕が行く」
先に立ち上がったジョシュを見上げていたペルセニーアは、静かに溜息をついて、自分も立ち上がった。首を振って、ピウニー卿をすくいあげたジョシュの手を両手で包み込む。ピウニー卿はジョシュの手からペルセニーアの手に移ると、素早くその肩に乗った。
「仰ると思っておりましたが、……なりません」
「でも……っ」
「ジョシュ殿下」
ペルセニーアの肩から、低い声が響いた。ジョシュが見上げると、そこには騎士然としたネズミが後ろ足で立っている。ネズミは小さいながらも騎士の礼を取った。
「私は、オリアーブ国国王親衛隊の1人、ピウニーア・アルザスと申します」
「……竜殺しの、ピウニー卿?」
「取り乱していたとはいえ、兄妹ともども殿下の御前をお騒がして申し訳ありません」
ジョシュは首を傾げる。口元がぴくぴくとせわしなく動き、髭がピン……と緊張していた。そのネズミの姿が、跪くような形を取る。
「サティのことを心配していただき、感謝いたします。……が、サティは私が助けます。殿下はここで、お待ち下さい」
「ピウニー卿……」
力の無い自分が悔しくて、拳を握って俯く。そんなジョシュを見て、ピウニー卿は立ち上がって髭を撫でた。
「ジョシュ殿下。……私が、サティのところに行かなければならないのです」
力が無くても、ネズミでも……自分が、助けに行かなければならない。
「え?」
「剣にかけて守ると誓ったのです」
そんなことを言われてしまうと、流石に我を通すことは出来ない。ジョシュは口を閉ざした。
「……ジョシュ殿下? ペルセニーア?……どうした?」
そのとき、パヴェニーアとヴィルレー公爵が揃って現れた。2人ともやはり気がかりは、サティとジョシュのことだった。それで、ひとまずジョシュの様子を見に来たのだ。パヴェニーアはペルセニーアの肩に乗っているピウニー卿に目を留めて、顔色を変える。
「……ペルセニーア、これは……」
「兄上、アンヘル様、……ジョシュ殿下をお願いします」
ペルセニーアは説明を省き、静かに一礼して2人と入れ違いに扉へ向かう。
「ペルセ!」
呼んだのは、ヴィルレー公爵アンヘルの声だ。
ペルセニーアはその声に振り向くと、1つ頷いてジョシュの部屋を後にした。