第3章 魔法使いの弟子

035.一番大切なことは

後に残されたヴィルレー公爵とパヴェニーアは、呆気に取られてペルセニーアが出て行った扉を見つめていた。一番最初に我に返ったのはパヴェニーアだ。

「……ジョシュ殿下、今のは一体どういうことなのですか?」

「サティが」

「サティ殿が?」

覚えのある名前にパヴェニーアは怪訝そうな顔をする。

「バジリウス宰相につかまってしまった……って……」

「つかまった……と言ったのですか?」

問いを重ねたのはヴィルレー公爵だ。ジョシュは頷く。

「どういうことだ、……なぜ、宰相閣下が? 理の賢者は知っておられるのですか?」

「それは分からない」

ジョシュは首を振る。バジリウスが理の賢者の許可無くサティをかどかわすなどあり得ない。……だが、そうでなければピウニー卿があれほど必死で助けたりはしないだろう。そうだ、ピウニー卿……。

「パヴェニーア団長、……団長は、ピウニー卿のことを知っているの?」

「ピウニー卿?」

ジョシュの問いかけにパヴェニーアが難しい顔になった。説明を求めるように、ヴィルレー公爵もパヴェニーアの顔を見つめる。パヴェニーアは息を吐いて、頷いた。

「……お会いになりましたか」

「うん」

「パヴェニーア団長、どういうことだ。ピウニー卿は生きておられるのか」

「ええ。先ほどペルセニーアの肩にネズミが乗っていたのを見られませんでしたか?……あれが、兄のピウニーアです」

「……まさか!」

「ヴィルレー公爵も猫のサティをご存知ですね。……兄は……ピウニーアは、サティ殿と共に理の賢者の元へ旅をしていたのです。人の姿に、戻る為に」

「それで、理の賢者と共に王都へ……?」

ヴィルレー公爵もジョシュも、もちろんピウニー卿の名は知っている。1年と少し前に、竜を倒して死んでしまったという竜殺しのピウニー卿。塵となって消えてしまい、死体が出なかったというのは有名な話だ。死体が出なかった……つまり小さなネズミの姿になってしまったからなのだろうか。

「サティ、も? サティも、元々は人間なの?」

パヴェニーアは頷く。

「兄も、サティ殿も、きっかけは違いますが同じ境遇です」

「まだ、人の姿に戻れてはいない、ということですか」

しん……と、部屋に沈黙が落ちた。

****

「バジリウスの名前が出てきたときに、ペルセニーアは驚いていなかった。……ペルセは何かを知っていたのかもしれない」

ジョシュの声が低く沈む。もしそうだとしたら、ペルセニーアは、バジリウスの何を知っているのだろうか。ジョシュの言葉にパヴェニーアが一度振り向き、拳を握り締めた。……何か知っていたとして、なぜ兄の自分に言わないのか。くそっ……!と騎士としてはあるまじき悪態を付くと、室内の2人に向き合う。

「……やはり、私も行きます。ヴィルレー公爵、ここを……」

「僕も行く!」

「殿下!」

「お願い、パヴェニーア団長。僕も連れて行って。サティは、……僕を助けてくれるって約束してくれたんだ。身体が楽になるような呪文も教えてくれた。だから……」

「……助ける、というのはどういうことですか? 身体が楽になる……というのは……。サティは、殿下のお身体について、何か知っていることがあるのですか?」

ヴィルレー公爵の訝しげな声に、ジョシュの表情がしまった……というものになる。聡いといってもまだ12歳だ。咄嗟の表情の変化は防げない。ヴィルレー公爵は、ジョシュとパヴェニーアの顔を交互に見つめ、眉をひそめる。「殿下……」ヴィルレー公爵の声が、ジョシュを追った。あきらめて、ジョシュは俯く。

「僕の身体がおかしいのは、魔力抑制の魔法陣のせいだって……サティが。だから、理の賢者に相談してくれるって」

「魔力抑制の……魔法陣?」

頷いて、ジョシュは説明する。寝台の下にある魔法陣のこと。独学で魔法陣のことを調べ、どういった効果があるかは幼い頃から知っていたこと。あの夜サティにそれがバレたこと。……そして、その目的は、恐らく誰かが自分を死なせないように魔力抑制を行っているのだということ。

その話を聞いたヴィルレー公爵は少なからず、驚く。だが、そこはさすがに若くして公爵位を治めているだけの男だ。少しの間考え込むと、パヴェニーアを見た。

「アルザス伯爵」

よく通る美しい声でヴィルレー公爵は呼ばわった。「パヴェニーア団長」……ではなく、アルザス伯爵を。

「貴方は、このことをご存知で?」

公爵の視線を受け、パヴェニーアは頑なな眼差しでヴィルレー公爵を見返した。一瞬、息の詰まるような緊張感が2人の間に下りた。いつも気安い雰囲気で内政とは程遠い2人であっても、やはり彼らは国王に仕える貴族なのだ。見ているジョシュも、緊張する。パヴェニーアは厳粛な様子で目礼して、返答する。

「サティ殿より他言無用……と」

「それで?」

「理の賢者に相談する以上のことはしないと、サティ殿と約束しております。このことを知っているアルザス家の者は、我ら3人の兄弟のみ」

ヴィルレー公爵は苦しげに瞑目して、安堵したように息を吐き出した。

「……ああ。そうだろうな。すまない」

「いいえ。ごもっともなことかと」

王太子の身体に異常の無いこと……強いて言えば、強大な魔力を持っていること自体が通常の事態ではないこと。魔力の抑制を6歳のころから継続させている何者かが宮廷に存在すること。……それはジョシュの身の上だけの話では済まされない。解呪する方法を見つければ、それを餌に国王自身に揺さぶりをかけられるかもしれない。王太子を生かすことも、殺すこともできる。特に、ペルセニーアのようにジョシュの側近くに仕えるものであれば簡単だ。

もちろん、自分が信頼しているペルセニーアがそんなことをするはずが無い。パヴェニーアに関しても同じだ。ピウニー卿も、そういった人柄では無いだろう。そんなことは、分かっている。それでも、ヴィルレー公爵として、アルザス伯爵に確認しなければならなかった。互いが協力しあって、宮廷に存在し得るかどうかを。

2人の間の緊張が解け、ジョシュもほっとした表情に戻る。だが、喉の詰まるような感覚を覚えて、くらりとよろめきそうになった。

<ニシャーナ・ア・ナヌーウ>
(柔らかなる、安らぎを)

サティから教えてもらった呪文を小さく唱えると、やはり心も身体も落ち着く心地がする。とても綺麗な言葉だ……と、ジョシュは本当にそう思った。この呪文のおかげで、ずいぶんと身体が楽になっているのだ。やっぱり、このまま放っておくわけにはいかない。「パヴェニーア団長……」ジョシュは、パヴェニーアの腕を掴んだ。

「お願い。団長……! 大丈夫、バジリウスがいきなり手荒な真似をするとは思えない。……交渉事があるなら、僕が出る。だから」

「殿下……」

パヴェニーアは自分の腕を掴み、迫ってくるジョシュを見下ろした。細い腕、細い身体。剣を持ったことのない手は柔らかく、何かの役に立つとは思えなかった。それでも、ジョシュの言葉は騎士であるパヴェニーアの心を打った。パヴェニーアは「失礼します」……と言って、ジョシュの身体を片腕に乗せて持ち上げる。

「ちょっとパヴェニーア団長!」

「走りますから、掴まっていてください。……ヴィルレー公爵!」

「……陛下の元には私が」

ヴィルレー公爵も観念したのだろう。2人に頷き、さらにパヴェニーアに真剣な眼差しを向ける。

「パヴェニーア団長、必ず後で、詳しい説明を」

「はっ……」

「ジョシュ殿下も」

「分かった。手間をかけさせてすまない、ヴィルレー公爵」

パヴェニーアはジョシュを片腕に抱えたまま部屋を出ると、猛然と廊下を走り始めた。

****

「……ヒューリオンの師匠が、バジリウスだと……?」

「ヒューリオンという名を知っておられるのですね」

「ああ。サティが連れて行かれる直前に、会って話した。その後、バジリウスがやってきて……『私とヒューリオンの関係が知られてしまったのか』……と」

「そうだったのですか。やはり知られたくない、何かがあるのでしょうか」

「それはそうだろう。……恐らく、サティとの戦闘をもみ消したのだろうな」

「……あれからサティ殿の関わったらしい事件を調べてみました」

ペルセニーアはバジリウスの執務室へと真っ直ぐ向かっていく。幸いなことに人の少ないその道中で、自分が調べたことをピウニー卿に語っていた。サティが一番最後に関わった魔法研究所の依頼、その依頼の直後に呼び出されたという第5師団。この1年間で消えた第5師団の魔法使い……その名前がヒューリオンだったこと。そして、ヒューリオンの師匠の名が、バジリウスの魔法語の呼び名だったことを。

「……ヒューリオンというのはサティが倒した魔法使いの名だ」

「はい」

「知っているか。魔竜を倒すための計画書が最初に流れてきたのは、第5師団だ」

「もちろん知っています。ラディゲ・ラファイエット卿を通して、第5師団から……と。……兄上、それは……」

「魔竜は善良なる竜だった」

「……な……」

「実際に会って確認した。この剣は、魔竜の一部を譲り受けて作ったものだ」

ペルセニーアの足が止まる。肩のピウニー卿に向かって、僅かに顔を傾ける。

「何者かに呪いをかけられ、理性が狂い暴れていたそうだ」

「……その呪いが、第5師団の手によるもの……と?」

「正確には、ヒューリオンの手によるのではないかと考えている。今、丁度ヴェルレーンという白翼の騎士が、そのあたりの情報を調べているところだ。だが、調べるまでもないかもしれんな……」

「……すべての裏に居るのがバジリウス宰相だとして、なぜ、あのような人が?」

俄かに信じられるものではない。バジリウス宰相はそれほどに、人格者として知られていた。もし、国を荒れさせるとか乗っ取るとかそういう目的があるならば、もっと別の方法があるはずだ。このような回りくどい方法などは必要ない。彼は、国のもっとも中枢にいるのだから。彼が表向き行ってきたことで、国の不利益になったことはただの1度も無かったはずだ。裏で秘密裏に何かを企んでいたということであれば……その目的はなんだろう。

「それが分からないから本人に聞くのだ。……それに、一番大切なことは……」

サティがさらわれてしまったことだ。

『黙っておいて貰わなければなるまいな』

バジリウスはそう言った。……その言葉の意味がどれほどのものなのか、ピウニー卿には分からない。思い浮かぶのは悪い予感ばかりだ。だが、何もさせない。手出しなどさせない。なぜならば。

まだ、己の気持ちを、伝えてもいないのだから。