第3章 魔法使いの弟子

036.いよいよ、投了だ

「バジリウス様。……あの時サティと一緒に居たネズミはいかがしましょう。探しますか?」

「放っておけ。どのみちあの部屋からは出られまい」

言いながら、バジリウスは執務室の机の上に視線を落とした。

「ちょっと!出しなさいよ!」

「言っておくが、その中では呪文も使えない」

「うるさいな、分かってるわよ!」

「分かっている……か。流石だな」

執務机の上に置かれている鳥かごのような檻に、サティは閉じ込められていた。檻の外には、サティを見張るように濃茶色の毛皮のオコジョが身体を伸ばして立っている。鼻をひくひくさせながら、周囲を注意深く伺っていた。その様子を横目でちらりと見て、サティは声を低くした。バジリウスへと視線を移す。

「……どうするつもり」

「あまり手荒な真似はしたくないのだがね」

「充分手荒な真似されてますけど?」

「まあ、そう言うな」

「バジリウス宰相……」

「なんだ」

「なぜこのような危うい真似を?」

「何のことかね?」

「……慌てて私をさらわなくても、魔法研究所で起こった事件程度。……わざわざ理の賢者の猫に手を出さなくても、もみ消したままにしておくことなどたやすいでしょうに」

理の賢者の猫を勝手にさらったなどの騒ぎになれば、今度こそもみ消すことは出来ないだろう。幾らオリアーブ国の宰相であっても理の賢者に手を出すことは許されない。そういう意図があっての質問だったが、サティの言葉にバジリウスは、ふ……と瞳を細めた。笑ったようだったが、その問いとはまったく別のことを口にする。

「元は人の子か。……サティと言ったか」

「何よ」

「弟子が世話になったそうだな」

「弟子……?」

バジリウスの言葉にヒューリオンがきょろ……と、丸い瞳をバジリウスに向ける。サティは不機嫌そうに瞳を逸らした。

「……私も魔法使いの端くれでね。名をバジリウス・イルスーク・イラ・エドゥ・ユーク……という」

ピク……とサティの耳が警戒するように後ろに向いた。もちろんその名前には聞き覚えがある。

「ヒューリオンの……」

「そう。ヒューリオンは私の弟子だ」

「エドゥ・ユーク……。イルスーク・イーラ……」

思わずサティは反芻した。どこかで聞いたことがある単語は、確かにヒューリオンの魔法語の名の一部だ。なぜ気付かなかったのだろう。この単語は並びを変えただけだったが、ジョシュの魔法陣を構成している呪文の一部に間違いない。

黙り込んだサティに、ちらりとバジリウスが瞳を向けると、グリーンの瞳がバジリウスを見返していた。2人の間に沈黙が流れる。だからだろうか。外の騒がしい音が、耳に付いた。足音と、人の声が響き、やがてノックの音が聞こえてきた。

バジリウスが訝しげに扉に目を向けると、外に控えている護衛の制止の声を丁重に、だが有無を言わさずに振り切ってペルセニーアが入ってくる。バジリウスは表情を変えることなく、サティとヒューリオンと、ペルセニーアとの間を遮るように前に出た。

「……これはペルセニーア殿。貴方はジョシュ殿下の下にいらっしゃったのでは?」

「宰相閣下、こちらに理の賢者殿の猫が迷い込まれているかと思いますが」

「ああ、確かに保護しているね。少し話が聞きたくてね」

「話? お戯れを。私は猫といいましたが」

「理の賢者のところの猫だ。……話せるとしてもおかしくはないと思わないか?」

「賢者殿の許可は?」

「同じ質問を貴方に返そうか。一体何の権限で、私の元に猫のことを質問に来たのかね?」

「早々に理の賢者の元にお返ししたいのですが」

「それならば心配は無いよ。私から言っておこう」

宰相に相対する態度としてはギリギリの非礼さでペルセニーアは話していたが、それに応対するバジリウスも顔色1つ変えない。ペルセニーアは硬い眼差しのまま、執務室へ踏み込み、執務机の近くまで距離を詰めて来た。

「……どうしても引き渡してはいただけませんか?」

「どうしてもという理由が無いと思うが?」

引き下がらないペルセニーアに、バジリウスは小さく苦笑した。

「……何を心配しているのかは分からんが、大丈夫だ、ペルセニーア殿。理の賢者殿は、私のかつての師匠なのだよ。師匠のことはよく知っている。きちんと説明をする。安心したまえ」

「理の賢者殿が?」

ぴく……とペルセニーアの端整な眉が歪む。バジリウスが理の賢者の弟子だった……というのは初耳だ。ペルセニーアは逡巡したが、やがてちらりとサティを見る。だが、一言もサティに言葉はかけず、諦めたように騎士の一礼をして一歩下がった。

「分かりました。……失礼をして申し訳ありません」

「かまわない。ジョシュ殿下のところに戻りたまえ」

その言葉には答えず、再度一礼して踵を返す。扉を開けて、静かに退室した。その立ち去った扉を眺めて、ヒューリオンはくすくすと笑う。

「うわ、薄情な女だね。サティ? お前のことは助けてくれないみたい」

「手荒な真似はしないんじゃなかったの?あなたの師匠は嘘をつくのかしら」

「生意気な……! 今にも殺してやろうか!」

ヒューリオンはサティの檻に前足をかけて胴体を伸ばすと、くわ……と口を開けた。ふん……と鼻を鳴らしてサティはそっぽを向く。2人の様子を見て、窘めるようにバジリウスがヒューリオンを下がらせる。

「下がれ、ヒューリオン」

「しかしっ」

バジリウスはサティを見下ろして、微かに笑った。

「さて……。なぜペルセニーア殿がお前を迎えに来たのだろう?」

サティはじっと檻の床を見つめていた。ぐるりと記述されている魔法陣は、恐らくバジリウスが描いたものだろう。堅物で……そして極僅かな魔力で最上の結果を得られるように効率よく構成している。

シンプルな美しさでイメージに頼るサティとは違う。そして、生死の境目に魅了された危ういヒューリオンの魔法陣とも。サティは、バジリウスの問いかけを聞いていないようにじっとその床を……いや、磨かれた執務机を見つめながら言った。

「師匠って……」

「理の賢者殿のことかな? 知らなかったのは無理も無い。もう20年以上昔のことだ。だが、今でも私の師匠は理の賢者殿、1人きりだ」

……ということは、自分の兄弟子、ということになる。<イルスーク・イラ・エドゥ・ユーク>……バジリウスの名を示し、一部がジョシュの魔法陣にも使われていた。師匠の好む形によく似ていた……。

「……なぜ、あの時気付かなかったんだろう」

「何のことかな?」

「……分かっているんでしょう!」

サティは顔を上げて檻の柱を前足で払った。爪を出していたからだろう。檻の柱がガシャンと音を立てる。グリーンの大きな瞳が怒りの色を帯びて、強くバジリウスを見つめ返す。

「……」

黙っているバジリウスに苛立った様に、再びガシャンと大きな音を立てて睨みつける。

「なぜジョシュ殿下に魔力抑制を施したの!」

「……サティ、お前……!」

「うるさいわね、ヒューリオン、黙ってなさいよ!」

いつに無くサティが声を荒げて、ヒューリオンに視線を向ける。今度はヒューリオンががしゃんと檻を叩き、再び威嚇をした。だが、サティはそんなヒューリオンの挑発に、ふん……と鼻で笑って、バジリウスの方を視線を戻す。当のバジリウスは一瞬の瞑目の後、口を開いた。

「ヒューリオン、やめなさい」

「しかし!」

「やはり、あの時のジョシュ殿下の下で保護された猫というのは、お前なのだな」

「どうしてあんなことを。……魔力を抑制されるのがどれだけ怖くて、どれだけつらいか、貴方は知らないの?」

「私は死ぬほど魔力は強くは無い。……お前は知っているのか」

「……」

「知っているのならば、術を施した理由も分かるだろう。あれでジョシュ殿下は……」

「だから、どうして!」

「世継ぎを失うわけには行かぬ」

「……そんな。ならば魔法使いを付ければよかった。徐々に緩めていくとか訓練するとか方法はあるじゃない!」

「ジョシュ殿下が初めて倒れたときに、傍に居たのは私だ。それで、あの術をかけることを決めた。意味が分かるか?」

ジョシュに一番最初に魔力の兆候が出たとき、バジリウスは居合わせた。高熱と呼吸困難、内臓への負担。医師を呼んだが、病などではないことに、魔法使いであったバジリウスはすぐ気付く。咄嗟に安定の魔法をかけた。その時は事無きを得たが、一時的なものだ。再び同じ事が起きないとは限らない。

「魔力を抑制する以外、命の保証はできない。お前ならば、分かるだろう」

「それなら、……それなら、師匠に相談することだって……」

バジリウスが逸らしていた瞳を、サティに再び留めた。

「ジョシュ殿下は恐らく、次代の理の賢者にもなれるやもしれぬほどの逸材だ。理の賢者殿がそれを知って、放っておくとはとても思えぬ」

「……え?」

世継ぎを失うわけにはいかなかった。当時、ジョシュ以外に有力な王族は居らず、もし王太子が居なくなれば、宮廷は騒ぎ立てるだろう。側室を入れるもよし、遠い縁の者を連れて来て養子にさせるもよし。事実、そのような動きはあった。

だか、国王は頑なに側室を娶らず、妃も懐妊しやすい身体とは言えなかった。仲睦まじいにも関わらず、6年もの間次の子は生まれて居ないのだ。たった今、1人の王太子を失うわけにはいかなかった。だからこそ、魔力を抑制して確実に王太子を生かしたのだ。

師匠である理の賢者に打ち明けることも考えたが、そうすれば、あれほどの魔力の持ち主だ。賢者に奪われてしまうかもしれない。だからバジリウスは王子を宮に閉じ込め、抑制を解いてもいいだろうという時期……すなわち、別の王太子候補が現れるまで待とうとした。その王太子候補が、現王の次男となるか、ジョシュ自身の子になるか、それだけの話だ。だが、その前にサティ達が辿りついた。

「王様は、このことを知っているの?」

「知るはずが無い。陛下は賢王だが穏やかで優しすぎる。このような計画をお知らせして、私が宰相などをやっておれるわけがない」

バジリウスの手がサティの檻に伸びた。指で撫でるように檻の枠に触れる。その胡乱な動きにサティが一歩下がった。

「さて。お喋りは終わりだ。お前をこのままにしておくわけにはいかない」

「……私が知っているのなら、師匠も知っているって思わない?」

「いずれにせよ、理の賢者が出てきたのであれば、すぐに露見することだよ、サティ」

「なら、私に手を出すなんて無駄なことだわ」

「それはどうだろう」

「脅迫? 言っておくけど、師匠にはそういう次元の手は通じないわよ」

「知っている。先ほども言っただろう。師匠が……理の賢者が出てきた時点で、詰んだも同然だ」

もちろん、追い詰められたのはバジリウスの方。チェックメイトは理の賢者。
いよいよ、投了だ。バジリウスは苦笑した。

実際、理の賢者が出てきたのは予想外だった。自分が知っている理の賢者という人は、世俗にほとんど関わってこなかったし、そもそも世俗に関わりたがるような人ではなかったはずだ。だからこそ、ジョシュの件は自分だけで隠密に事を運ぶことができると思っていた。他の貴族にも、国王にも知られること無く、穏便に。そうして、やっと王妃が懐妊した。これで男でも生まれれば、ジョシュの魔力抑制の魔法陣を外すことができるだろう。

だが、その前にとうとう理の賢者が来た。すぐに自分の企みは見破られるはずだ。バジリウスは間に合わなかったのだ。

取る道はひとつあった。理の賢者が来るその前に、魔力の抑制を外せば何も無かったことになる。王太子の身は危険だが、バジリウスが手がけた痕跡は消え、自分のやったことは誰にも知られない。

だが、バジリウスには外せなかった。

理の賢者が来ると分かっていたのに、自分は魔法陣を外さなかった。そのときに気付いたのだ。……もし第2王子が生まれたとしても、外せるかどうか……。

その迷いに気付いた瞬間、バジリウスの敗北が決まった。

ただ、敗北を宣言し己が失脚する前に、やっておかなければならないことがある。

バジリウスは執務室の横に立てかけている、細く短い杖を手に取った。

「だが、まだ知れていないこともあるのだよ。……サティ、お前が覚えていることをすべて消せば」

「私が覚えていること?」

「安心しろ。死なせはしない。……少しばかり、忘れるだけだ。人の言葉と、これまでの記憶を」

「……どうして……」

「オリアーブの魔法研究所で死霊魔法が研究されていた……などと、民に知られるわけにはいかないのでね」

「ヒューリオン、のこと……?」

「……弟子の不肖は師の不肖だ。悪いが、忘れてもらう」

「頭おかしくなったの!? 師匠が、みんなが黙ってるわけ……」

「言っただろう。私の敗北だ、と。私が失脚した上で、なお死霊魔法があったと騒ぎ立てる者がいると思うか? だが、サティ。お前と私だけはヒューリオンが何をしていたのか知っている」

……その言葉を聞いて、ヒューリオンがピクリと震えた。バジリウスはヒューリオンには目を留めずに続ける。

「通常のお前相手ならば出来ないだろう。だが、魔力を封じ込められている籠の中のお前ならばどうだろうか。人であることを全て忘れるか、完全に抵抗するか。どちらかだ」

だが、魔力が封じ込められていれば、抵抗することは難しい。バジリウスが呪文を唱え始める。

<オイェルーサゥ・エテビュシュ・オ……>
(積層した記憶を……)

忘れる?
言葉と、記憶を……?

サティが檻の端まで後ずさる。
そんなのは嫌だ。他のどんなことも我慢できる。
でもそれだけは嫌だ。

「嫌よ」

なぜなら。

自分は。

<エオーボ・アテナサク>
(全て忘却せよ)

サティの閉じ込められている檻に、バジリウスの手がそっと置かれる。

「サティ、伏せろ」

同時に、サティの好きなあの、低い声が聞こえた。