第3章 魔法使いの弟子

037.私が聞きたい

「サティ、伏せろ!」

「バジリウス様!」

「……っ!」

カシャーーーーーン!!

バジリウスの呪文は完成することは無かった。

最後の一節。サティの名前を付与する前に、何かが飛んできた。ヒューリオンの一声でバジリウスは咄嗟に身をよじって部屋の中央へと身をかわしたが、手の甲を切り裂かれ、杖が飛んでしまった。次いで、サティの檻が、ポーンと何者かによって投げられたように執務机から落ちる。

魔法灯を吊り下げていた鎖が1本、振り子の勢いで飛んできたのだ。

「サティ……!」

「ピウニー……!」

振り子の先端にくっついている金色の固まりが、檻に向かって飛んでくる。それはバジリウスの手から遠ざけるように檻を押した。転がる檻の中で反転するサティの頭の上に、懐かしい声が響いて思わず名前を呼ぶ。

落ちてきたのは、小さなネズミのピウニー卿だった。

****

ピウニー卿はペルセニーアの足元に隠れたまま執務室に入り、執務机の側に来たところで机の影に降り立ったのだ。バジリウスが会話をしている隙に本棚を利用して天井近くまで上った。むき出しの梁を伝って天井を渡り、途中で出ている小さな明かりに飛び移る。明かりを支える鎖は細く心もとなく、何度かカシャンと音がした。……だが。

ピウニー卿のその姿は磨かれた執務机に微かに映っていたのである。サティはそれに気が付いた。

だから、サティはピウニー卿の動きに合わせて、声を張り上げ檻を揺らしたのだ。その様子に気を取られて、バジリウスもヒューリオンもピウニー卿の気配にも立てる音にも気が付かなかった。ピウニー卿は一番大きな魔法の灯に飛び移った。ピウニー卿はそれを吊り下げて支えている数本の鎖の中で、最も長いものの先端を魔法灯から外して掴む。長いその鎖は、天井から執務机くらいならば届くだろう。

そうして聞こえてきたのは、「記憶を消す」という不穏な言葉。僅かに怯えたサティの声。ピウニー卿は躊躇うことなく、鎖を掴んだまま魔法灯から飛び降りた。鎖が振り子を描いて目指すのは、サティに魔法をかけようとしているバジリウスの手。ピウニー卿はその手に剣を一閃すると、さらにサティの檻へと飛び移る。飛び移った衝撃と力に任せて、檻の枠を叩き斬った。

「何者だ……!」

これには流石のバジリウスも声を荒げた。切り裂かれて流血している手の甲を押さえ、自分目掛けて飛んできたヒューリオンと共に、落ちた檻の方を見ている。

「宰相閣下!?」「先ほどの音は……」……などという声と、「通せ!」「通して!」「しかし、ジョシュ殿下!」……などという声が混じり、騒然としている扉が開かれた。

最初に部屋に飛び込んできたのはパヴェニーアとジョシュだった。部屋の中央にぶらーんと下がっている一本の鎖。手の甲を押さえているバジリウス。バジリウスの腕に乗っているオコジョ。転がっている檻。執務机の上には、セピア色の毛皮の猫と猫の足元に金色の毛皮のネズミ。

「……これは一体どういう状況ですか……」

「私が聞きたい」

パヴェニーアの問いに、額を押さえ頭を振ったバジリウスが吐き捨てるように答えた。珍しく、感情を露にした声だった。

****

「サティ……!」

「ジョシュ殿下、なりません」

「やはり、サティとお知り合いでしたか、ジョシュ殿下」

サティの下に駆け寄ろうとしたジョシュをパヴェニーアが抱えるように止める。その様子を見て、ふ……とバジリウスが笑った。ヒューリオンを肩に乗せて、忌々しげに執務机の猫とネズミに目を向ける。ネズミはいつのまにか、猫の頭の上に乗っていた。

「……それに、ピウニー卿……か。ネズミが1匹居たとヒューリオンが言っていたが、貴公のことだったのだな」

「予想外か?」

「いいや」

「私がこのような姿で居る……と、知っていたのか」

「さてな」

「いかような呪いか、知っている……ということか」

「何を言っているのか分からないな」

「ならば、魔竜の理性を狂わせた呪い……とでも言えば分かるか」

「魔竜の?」

バジリウスは、ふ……と笑った。

「今度は魔竜か?……あれは、人を襲った。どれほどの村が焼き払われたと思っているのか」

「……どれほどの村も焼き払われてはいない。知っているはずだ」

「知らぬな。貴公が討伐したのだろう。……何を証拠にそんなことを」

「証拠ならば、ある。本人に聞くがよい」

「本人……?」

バジリウスの瞳がなんのことだ……と、物騒な形に細められる。

「サティ……。一度炎を召喚している。恐らく呼応するはずだ」

サティは頭の上のピウニー卿に小さく頷いて、返事をした。

サティの、歌うような、空気に染み渡るような、澄んだ声が響いた。ヒューリオンがそれに気付いてバジリウスの肩を蹴って、サティに飛び掛かる。さらにバジリウスが追い詰めるように、執務机を回り込む。

<ウィロー・ナ・ムラン・イアディ = フロット・フォン・ド・ラーゲ・ベネカ・イェズ・マーレ・マハ・マハジューレ>
(大いなる翼。艶めく黒い鱗。偉大なる魔の竜。マハ・マハジューレ)

サティは、ヒューリオンを避けるように素早く飛び去ると、身を翻して執務机の後ろの窓辺に身体を置いた。バジリウスがやってきて、サティとピウニー卿が追い詰められる。ジョシュがバジリウスを止めようと身を翻したが、パヴェニーアがそれを押さえつけた。

「兄上、何を……!」

「サティ!」

<イノトゥーモ・ピウニーア・サティ!>
(ピウニーアとサティの下に召喚する!)

魔竜を呼ぶとは思えないほどの、シンプルな……極普通の、召喚の言葉だった。

『ピウニーア、サティ、飛べ!』

「え、飛ぶの!?」

吐息交じりの、何者かの声が聞こえた。ピウニー卿が剣で窓ガラスを突くと、たちまちそれが粉砕されて欠片が落ちる。一瞬躊躇したサティの頭の毛皮にピウニー卿は前足を埋めて、顔を押し付けた。

「サティ……! 大丈夫だ、私が付いている……!」

その声がサティの心を一瞬で決めた。

ピウニー卿は気付いているだろうか。いつだって、彼の声がサティの心を決めるのだ。

バジリウスの手がサティに伸びて、その手を避けるようにサティとピウニー卿の2人は窓の外に飛び出す。

「……なっ!」

「サティ!」

「兄上!!」

バジリウスの手は空を切り、ジョシュは驚いたパヴェニーアの腕を振り切ってバジリウスと共に窓に手を掛けた。だが、窓の外に満ちるのは恐ろしいほどの魔力と、その魔力を含む渦巻くような風だ。慌ててパヴェニーアはジョシュの元に駆け寄り、その身体をさらって窓から離れる。

「ヒューリオン、窓から離れろ!」

「ジョシュ殿下、こちらへ!」

ヒューリオンがバジリウスの腕の中に飛び込み、全員が執務机の後ろに下がったと同時。

グオオオオオオオオオオオン!!

力に満ちた咆哮と黒い影が窓を覆い、次の瞬間、外に面した全ての窓を崩して何者かがバジリウスの執務室へと乗り込んできた。

いや、乗り込んできた……というか、衝突して破壊しなだれ込んできた……と言ったほうが正しいだろう。床は綺麗に残っていたが、窓の周辺は無くなったといってもいい。あまりの大惨事に、部屋の全員が言葉を失う。

『我はグラネク山の魔の竜、ウィロー・ナ・ムラン・イアディ=マハ・マハジューレ!……ピウニーアとサティの召喚に応じてここに来た!』

「魔……魔竜……?」

『さあ! ピウニーアとサティの望むままに、我の炎と魔力を行使しようぞ! 敵はいずこか!』

グオオオオ!……と、再び咆哮を上げるのは、

馬ほどの大きさの……竜だった。

****

「……マハ……2人に何をさせるんだ……危ない真似をするな! 俺が受け止めなかったら死んでただろう。落ちてたぞ!? 分かってるのか?」

『ラディゲ、ピウニーアとサティは追い詰められておったのじゃ。外に飛び出さねば間に合わなんだ。それに、そなたが受け止めなくとも我が口で受け止めたわ。見くびるな』

「それにマハ。俺は外に滞空しろと言わなかったか?」

『なだれ込んだほうが手っ取り早い』

「ラディゲ? なぜ、貴公が一緒に召喚された。しかも、なぜ今回に限って、こんな大きさでやってくるんだ!」

おかげで、現場の壁は見るも無残な状態だ。

「説明は後だ、ピウニーア。状況を……」

『我はピウニーアではなくてサティに話したい』

「えっと?」

「だからそれは後だと言っているだろう。マハ、頼む! 説明は後にしろ!」

魔竜の背から、ピウニー卿とサティを抱えた黒い髪黒い瞳の騎士が降り立った。

****

ラディゲは腕にいるピウニー卿とサティを執務室の机の上にそっと置くと、バジリウスを一瞥して魔竜の横へと下がった。ピウニー卿が素早く駆けて、壁を背に倒れこんだバジリウスの肩の上に乗る。

剣を抜き、喉元に突きつけた。

「バジリウス様!」

ヒューリオンが駆けようとするが、その身体は、抱えられているバジリウスの手に押さえられた。

「動くな」

バジリウスの喉元に剣を突きつけたまま、ピウニー卿が一喝する。……バジリウスが観念したように、喉で笑う。

「ネズミ風情がいかようにする。ピウニー卿」

「小さな剣ではあるが、このまま喉を一突きにすれば無事ではいられない。この剣はマハの炎を帯びている。どういう意味か分かるだろう」

「それで、私に何をしろと?」

「すべての説明をしてもらおう。……魔竜の身に何が起きたかを」

ピウニー卿のその言葉に、バジリウスは視線を魔竜へと動かした。金色の瞳が怒りに燃えて、バジリウスを見つめている。

「生きていた……ということか、魔竜……」

『ヌシが……我を狂わせた魔法使いか……?』

「だとすれば?」

その言葉に……魔竜が一歩近づいた。さすがのバジリウスも気圧されるように表情を強張らせる。魔竜は憎しみを込めて、グオオオ……!と息を吐いた。

『ピウニー卿、そこを退け』

「マハ、炎はダメだ」

『ならぬ。そなたごと焼きたくは無い。退け』

「止めて!」

魔竜の口の端から青い炎が覘き、一気に熱量が上がる。その熱量を受け止めるように魔竜とバジリウスの間に立ちはだかったのは、小さなオコジョのヒューリオンだった。

「止めぬか、ヒューリオン」

呆れたようなバジリウスの声を無視して、ヒューリオンは一気に言い放った。

「魔竜マハ・マハジューレ。貴方を狂わせた呪文を作ったのは私。構築したのは私。忘れたの? 貴方に魔法をかけたのは私よ!」

じろりと魔竜の金色の瞳が小さなヒューリオンを睨みつけた。

「殺すなら私を殺しなさいよ。覚えているでしょう。この声を! 貴方と、貴方たちの眷属を狂わせた、この呪いを……!」

ヒューリオンの声が憎しみを煽るように、歪められた。

「アラヌ・イアルト・アラニーサナク・アラニースルク……(生きることの悲嘆、永らえることの苦慮、目覚めることの辛苦……)」

「やめなさい、ヒューリオン!」

グルルル……と、魔竜の苦しみのオーラが息詰るほど高まる。「おい、待て、マハ!」ラディゲが魔竜の正面に回り込み、宥めるように首を抱える。その隙にサティがヒューリオンに飛び掛り、四肢を押さえつけた。

「離せサティ! 離して!!」

「もう止めろ!」

荒々しくバジリウスの声が響き渡った。ヒューリオンとサティに一瞬気を取られたピウニー卿の身体を、バジリウスが掴む。

「くっ……」

バジリウスの手に突き立てんと、ピウニー卿が剣を逆手に持ち変えた。だが、ピウニー卿の予想に反してバジリウスはピウニー卿ごと、その剣を自分の喉下に突きつけた。

「魔竜マハよ。お前の呪いは、私がヒューリオンに命じてやらせたものだ」

「……なんのために」

ピウニー卿は微動だにしないまま、バジリウスに問いかけた。少しでも動けば、バジリウスの喉元は完全に斬れるだろう。それほど絶妙な位置に、ピウニー卿は宛がわれている。

「魔物は魔力により凶暴化する前に倒すべきなのだ」

「……なんだと?」

「魔に属するものは放っておけばいずれ魔力のバランスを崩して凶暴化する。それならば大人しいうちに倒しておいたほうがよい」

「そんなことのために兵を裂くのか!」

「ピウニー卿よ。……そのために兵が裂けぬなら、裂けるように世論を動かせばよいのだ」

室内の全員が沈黙した。

「魔竜が暴れてくれたおかげで、魔物に対する警戒は一層強められ、黒翼と魔法師団の結束はより強いものになったのを知っているだろう。それに……竜殺しの騎士ピウニー卿という英雄は、大いに役に立ったよ。一騎当千の戦力が減ってしまったのは惜しかったが、死んでくれたおかげで魔物に対する憎しみは煽られ、士気は上がった。ここ最近の魔法師団と黒翼に対する資金は潤滑に動いていたはずだ。あと数歩で、沈静化している魔物に対する討伐も許可できるだろう。さらに5年もすれば数基、国境に砦を建設できる。グラネク山にもな」

『グラネク山に、砦だと……?』

「なぜそのような……」

「……貴様……そんなことのために……」

魔竜の憎々しげな声と、ピウニー卿とラディゲの戸惑ったような言葉を、バジリウスは一笑に付す。

「そんなこと? ……オリアーブ国は強くあらねばならぬのだよ。いずれ必ず来るであろう外の脅威から身を守るためにも、内の魔物にばかり気を取られていてはならんのだ。他の国よりいち早く魔物の平定を行い、外界に向けて国力を整えなければ……」

現国王に代替わりしてしばらく騒がしかった宮廷も、やっと静かになった。大陸は暴れる魔物に奔走している。国内から魔物を一掃し、国力を蓄えるならば今の内だ。そう思った矢先にジョシュが倒れてしまった。再び高まる、世継ぎへの後見争いと派閥の駆け引き。それらの目を逸らして国の意識を一点に集中させ、騎士団と魔法師団ひいては民の士気を上げ、そして魔物も平定できる方法がある。狂った魔竜とそれを討伐する英雄たちの存在だ。

オリアーブは強くあらねばならぬ。
王家は無事存続し、外の敵にも内の敵にも滅ぼされてはならないのだ。

それはバジリウスが先王に約束した、オリアーブ国に対する忠義心だった。