第3章 魔法使いの弟子

038.愛しているんだ

元々バジリウスはさほど有力ではない貴族の次男だ。魔法使いを夢見たが、身の内の魔力は、通常の魔法使いに求められるよりもかなり少なかった。だが、魔法語に魅せられ独学で魔法の研究を行ってきたのだ。自身の低い魔力でも効果的に魔法が構築できるように、魔法陣や呪文を作成するのが好きだった。魔力が低いため魔法師団にも魔法研究所にも所属はできなかったが、魔法に対するこだわりが理の賢者に気に入られたのか、彼は理の賢者の弟子となり、ますます研究に没頭していった。

理の賢者の弟子となってしばらく経った頃、父親と兄が宮廷にて失脚した。先代の王の下、魔物の凶暴化が顕著になってきた矢先の出来事だ。自身が治める領内で魔物の凶暴化の騒ぎがあった。もとより大人しくか弱い魔物として有名で、防御と備えが甘かったのが大きい。凶暴化しているという報があったときも、対処が極端に遅れた。

集団化したそれは領地内に甚大な被害を及ぼし、初動の遅れと備えの悪さが指摘されたのである。領内の荒れは簡単には復興できなかったため、これ以上の爵の維持は無理だということで爵位を返上した父と兄は、田舎の片隅で枯れるように晩年を過ごした。すでに兄とも父とも縁を切っていたバジリウスではあったが、若い彼にこの衝撃は大きかったのだ。

宮廷の有力者から攻撃されたわけでもなく陥れられたわけでもなく、しぼむように失脚した彼らを見て、今まで世俗から離れていたバジリウスに奇妙な野心が沸く。

バジリウスは魔法使いにはなれぬほどの魔力しかなかった。だが、己の力の使い方を見出し、魔法使いとなることができた。そう思って国を見れば、当時は魔法師団も魔法研究所もそれほど魔物の鎮圧に貢献しているわけではなかったし、騎士団の力押しばかりが奮い、相互の連携も全く無かった。力の使い方をもっと研究して効率のよいものに高めることが出来れば、オリアーブはもっと強くなるだろうに。

バジリウスの研究へのベクトルは、魔法の効率から国の力へとシフトしていったのだ。

国王の下で己の考えを試してみたいと言ったバジリウスを、理の賢者は止めなかった。ただ己に「バジリウス・イルスーク・イラ・エドゥ・ユーク」という魔法語の名前を与えて、送り出した。「知によって苦悩も善行と為せ」という古代魔法語の意味を、これから己の力を試す自分に対する祝辞と受け取り、バジリウスは理の賢者の弟子を辞して、先代国王の下に馳せ参じたのである。

先代国王は穏やかな性格の現国王と異なり、武を好む強い性格の持ち主だった。その先王の下で、好き勝手が多い魔法研究所をうまくまとめ、魔法師団と騎士団を結びつけ、その力を持ち上げたバジリウスは高く評価された。バジリウスは己を認める先代国王に心酔した。先代国王が懸念する内外の敵を払い、国を守る。必ずオリアーブ国を強く強大な、魔法と剣の国にしようと心に決めたのだ。

ただ、バジリウスは冷徹無比な血も涙も無い男というわけではなかった。何かを愛したり、信頼に応えたり、自分を慕う言葉に報いる喜びもまた知っている、そういう……弱い男だった。

長年にわたり国に仕え、培ってきた親愛。国に対する愛情。

尊敬する理の賢者、敬愛する先王、友ともいうべき時間を過ごした現王、自らが教える政治学を容易く吸収するジョシュ。

……そして、小さくか弱い姿になっても、なお、自分を慕う一途な弟子。

それらは全て、捨て切れぬ感情という名前の荷物になった。それを持て余しながらここまで来た。己の心の弱さすらも利用して、バジリウスは上手くやってきた、はずだった。

だが、どこで間違い、何が悪かったのか。

****

『ピウニーが我を討たなければ、如何様にするつもりだったのか』

魔竜の言葉に、バジリウスが微かに笑う。

「暴れる竜を放逐するわけにはいくまい。あの呪いで、お前の魔力の流れは閉ざされたはずだ。どうなるかは、分かるだろう」

『我が「魔の竜」であるからか』

「そうだ。マハ・マハジューレよ。お前に呪いによる死は効かぬ。しかし魔力そのもののお前は、自身の魔力を操ることが出来なくなればまず理性を失う。そして『魔』の『竜』という己を形成できなくなり、いずれ滅びる。人が生命力の流れを止めると死を迎えるように……。そのときはそのときで、ピウニー卿なり、ラディゲ卿なりに手柄を渡せば英雄を生むのはたやすい」

だが事態はバジリウスやヒューリオンの予測を超えた。魔竜の断末魔の力はすさまじく、己の呪いを苦しみと同時に吐き出した。自分の力で呪いを解いたのだ。そして皮肉なことに、ピウニー卿の剣が魔竜の命を救った。自分自身の血と魔力を礎に、魔竜は一度死に、復活する。

ただ、魔竜の理性を狂わせた呪いは、人間に対しては姿形を変化させる効果を表したのだ。人間が持つべき魔力の流れが途絶え、人の意識から離れた別種の魔力へと変わる。その魔力に人の姿は耐えられない。だから、姿形が変わるのではないか……というのがバジリウスの予測だ。

「だから、サティと私はこの姿に……? あの、あの魔法は、バジリウス様が直してくださったのでは……。だから魔竜も時間差で死ぬのだ……と……」

ヒューリオンが呆然と呟いた。その声を聞いて、押さえつけているサティがヒューリオンを見下ろす。

「バジリウスが、……直した?」

サティの声が低くなった。何も答えないバジリウスを見て、サティはやっと分かった。「ああ……」と瞳を閉じる。

「私にかけた呪い……生命の流れと、魔力の流れ。……古の魔法語はとてもよく似た言葉だわ。思い出した。最後の言葉は……<ウーク・オ・リリィアマヌス>(魔力のかたち)だったでしょう」

サティはバジリウスを、キッ……と睨みつけた。

「生命力を示すのは……<ウーク・オ・リリィエミエース>(生命力)よ。バジリウス。ヒューリオンに死霊魔法を使わせたくなかったの? だったらなぜ、止めなかったのよ! 死霊魔法を使わなかったからと言って、許されると思ってるの? マハにしたことは絶対に許さない!」

その言葉に、バジリウスが笑う。

「サティ、お前の言うとおりだ。マハ・マハジューレに為したことを許されようなどと微塵も思わぬ。それだけではない。私がこれまでしてきたことを、許されようなどとはな。いちいちそんなことを望んで、宰相などやっておられるわけがなかろう」

「そんなこと聞いて無い! 大体、ヒューリオンはどうするのよ……」

サティの下で、ヒューリオンの身体が強張った。バジリウスは瞑目する。

「ヒューリオンがこだわったのは、お前と私だけだ、サティ」

バジリウスが死に、サティが魔法使いでなくなれば、ヒューリオンが死霊魔法に拘る理由は無くなる。オリアーブから死霊魔法の研究の痕跡は無くなるはずだった。

ヒューリオンは無言だった、そもそも自分が死霊魔法に魅了されたのは、師匠であるバジリウスの役に立ちたかったからだ。そしてサティにこだわったのは、彼女が理の賢者の弟子だったから。

理の賢者の弟子であるバジリウスと、言ってみればその妹弟子であるサティ。ヒューリオンは、一番最初にサティを見たときから、いつも彼女を意識していた。サティにどうしても勝ちたかった。でも勝てない。だから自分でも勝つことのできる、魔法の言葉を捜したのだ。

……それが死霊魔法の言葉だった。誰も使わない死の言葉に、ヒューリオンはたちまち魅了された。

バジリウスとてそれに気付いた。数度、死霊魔法に手を出してはいけないという教えを説いたが、それでも、止めさせることはできなかった。破門にすれば止められただろうか。追放すればよかったのだろうか。バジリウスはどちらの手も下さなかった。

ただ、ヒューリオンが開発していた、「死の呪い」を、書き換えた。それにより、「死の呪い」は死霊魔法ではなくなったが、ヒューリオンは気付かなかった。それどころか、慕う師匠が修正して完成に導いてくれた魔法を喜んだのだ。

そしてまた、バジリウスもその魔法を見て、ひとつの手を思いつく。魔力の流れを止める呪い……これを使えば魔竜を「安全」に、狂わせることが出来るだろう。弟子を死霊魔法から離したいと願う一方で、国を強化する策を思いつき……、バジリウスは選択した。「それを魔竜に施すことができれば」……と。ヒューリオンがやらない訳が、なかったのだ。

「しかし、もう終わりだ。……さあ、ピウニー卿。今、国に巣食う病魔はこの私だ。もとよりそのつもりだったのだろう? 無慈悲にもなれず、かといって慈悲深くもなれなかった、この無様な宰相を討ち取るがいい」

「……バジリウス、なぜ歪んだ。なんのために」

ピウニー卿の声が、苦々しげに低く響いた。

「さて。人など、些細な出来事で歪んでしまうものだ。どうした、ピウニー卿。貴公が出来ぬならば自分でやるまでだ」

あるいは、自分が無慈悲であればすべての企みは成功したのだろうか。だが自分は敗北したのだ。ならば、後の憂いは絶たなければならない。この国のためにも。

「な……待て、止めろ!」

バジリウスは掴んでいるピウニー卿に、力を込める。

だが。

ピウニー卿の刃がバジリウスの喉下に届く前に、今まで大人しくしていたヒューリオンが暴れ始めた。

「やめて、やめて、バジリウス様を殺さないで!」

バジリウスは死なせない。

彼が無慈悲になれなかったがゆえに自分を殺してしまうのならば、自分が無慈悲になって彼を害するものを殺そう。そのためになら死霊魔法にだって堕ちよう。

だって、呪文は、完成しているのだから。

そうでしょう、師匠。私の……。

サティの下で、ヒューリオンの急いたような声が聞こえる。

<アラヌ・イアルト・アラニーサナク・アラニースルク>
(生きることの悲嘆、永らえることの苦慮、目覚めることの辛苦)

<エアミス・エテモット・オ・エーラガヌ・オ……>
(憂いを断ち切りたければ、流れを止めよ。)

「ヒューリオン……やめて、やめなさい!」

ヒューリオンは四肢を伸ばして暴れ、一瞬力が緩んだサティの腕から逃れた。まっすぐに狙いを定めて跳躍する先は、

ピウニー卿だ。

<ウーク・オ・リリィエミエース>
(”生命いのち“という、流れを)

ヒューリオンの呪文は完成し、室内の魔力が一気に膨張する。
事態の展開に全員が呪縛にかかったように、動けない。

一瞬の後に魔力が収まると、2匹の獣が倒れていた。

****

「そこまでじゃ」

獣が2匹床に落ちたが、それを認識する前に老練した理の賢者の声が響いた。だが、その理の賢者の言葉が耳に入らないものが室内に2人いる。

1人はバジリウスだった。

バジリウスは自分の膝の上に落ちた、小さなオコジョの身体をすくって呆然としていた。

そしてもう1人。

理の賢者は歩を進めてそっとしゃがみこむと、倒れた獣の身体を優しく撫で、悲しみに満ちた声でこう言った。

「遅かったか。……かわいそうに」

いたわしげにセピア色の毛皮を撫でている賢者の手を、ピウニー卿は信じられない思いで見つめていた。

ヒューリオンの魔法が狙ったのは確かに自分だったはずだ。
それなのになぜ、自分の目の前にセピア色の猫が倒れているのだ。

遅かった。

理の賢者は確かにそう、言った。

「遅かったか、サティ」

……と。

****

グルル……と、魔竜が苦しげに息を吐いた。いつもなら、怒りの咆哮を上げる魔竜だが、あまりのピウニー卿の傷ましさに、声が出なかったのだ。

『おお……サティ……なんということよ……』

「ピウニーア……」

室内の全員が、理の賢者の言葉で何が起こっているのかを悟った。掛ける言葉も見つからないまま、ラディゲも魔竜も動けなかった。

事が起こった瞬間もっとも近い場所に居たのは、ラディゲ達だ。ラディゲ達は見た。バジリウスに掴まれていたピウニー卿に魔法を打ち込みながら体当たりするオコジョのヒューリオン、だがその身体がネズミに届く前に、……呪文が完成する瞬間にセピア色の猫が飛び出して、ネズミとオコジョの間に割って入った。もちろん、呪文の直撃は免れなかった。サティはピウニー卿の目の前で、糸が切れたようにくたりと床に落ちて、動かなくなった。

最後の言葉すら、そこには無かった。

「サ、ティ?」

ピウニー卿が、悲痛な声でサティの名を呼ぶ。小さな金色のネズミが、セピア色の猫の喉元にそっと手を埋めて揺さぶっているのを、室内の全員が黙って見守っていた。

「うそ、……嘘だよね、サティ。サティ!」

「待て、ジョシュ!」

「離してください父上! 嫌だ! サティ!」

一拍遅れて響いたのはジョシュの声だ。それを止めるのは、理の賢者と共に来たのであろう、国王その人だった。ちらりとラディゲが視線を向けると、暴れるジョシュを後ろから抱えるようにサティに駆け寄るのを防いでいる。サティに駆け寄りたいのは全員が一緒だ。だが、今それが許されるのはピウニー卿だけだった。

「……サティ、兄上……そんな」

「ペルセ……」

涙声が混じる。国王と共にやってきたペルセニーアがくらりとバランスを崩し、その身体をヴィルレー公爵が支えていた。パヴェニーアは「兄上、サティ殿……」とつぶやいただけで、後に続く言葉を一言も発することが出来ず、それは……ラディゲも同じだった。

「何、これは何ですの……? サティ? 何をやって……っ!」

「プリムベルさん!」

ラディゲには聞き覚えの無い女の声と、それに重なったのはヴェルレーンの声だ。見れば眼鏡の女がやはり室内に駆け込もうとしているのを、ヴェルレーンが押さえている。

「いや……! 離して。お父様! ピウニー卿! 一体これはどういうことですの!? なぜ、サティが……」

理の賢者が立ち上がり、プリムベルを振り向いた。

「プリムベルや……。死の呪いの呪文じゃよ。……完成させておったとは」

「獣の姿で、どうやって……」

バジリウスの声が掠れたように震えている。

「おぬしも魔法使いなら分かるじゃろう。心から唱えた呪文は魔力が無くとも体力がそれを補い、媒体が無くとも己の身が杖となる」

「それで、ヒューリオンは……」

「人の生命力の流れを止めてしまうほどの呪文じゃ。杖の無い不安定な状態で放って、無事でおられるわけが無かろう。ましてそのような小さな身で」

「……サティ、は……」

じっとサティの喉元を抱き寄せたまま動かないピウニー卿の言葉に、理の賢者は瞳を向けた。

「サティとて、同じじゃ」

「俺を庇って……」

「ああ……。サティや。もう少しわしが来るのが早ければ……」

理の賢者が「遅かった」と言えば、それは望みが絶たれたも同然のような心地がした。

「サティ……サティ」

ピウニー卿は叫ぶでもなく、声を荒げるでもなかった。それが逆に痛々しい。ただ、聞いている者が胸を掻きむしりたくなるほどの、悲しみに満ちた声でサティの名前を呼んでいた。

ピウニー卿は動かなくなったサティの喉元を何度も撫でる。
自分はまだ言っていない。伝えていない。それなのに、何故。

「サティ、俺はお前を……」

何故早く言っておかなかったのか。
何故聞かせられなかったのか。
自分の気持ちを、自分の声で。

何故、サティに届けることが、出来ていなかったのか。

「愛してる。……愛しているんだ……。サティ、どうか……」

 

お願いだ。

自分の下から離れて行かないでくれ……。