魔王が嫁が欲しいと言い出した。
宰相シャイターンは長い足を組んで玉座に座す若い魔王に、ふおふおと笑いながら「さようでございますか」とだけ言った。
見事な白髪に見事な白眉。細く穏やかな瞳に、整えた口髭。仕立てのよいスリーピースのスーツに杖を持っている。この老獪な紳士は蛇の王シャイターンという。先代、先々代の魔王にも仕えた魔族である。今代の魔王ルチーフェロが生まれ出でたときもその場に控え、魔族とは何か、界とは何か、魔力とは何か、魔王とは何か、それら全てを教えた教育者であり、魔王の第一の側近であり、魔界でもっとも長命でもっとも狡猾、もっとも油断のならない魔族であった。
シャイターンが育てた3人目の魔王。彼から見ればまだまだひよこのようなルチーフェロは、これまでの魔王の中でも、もっとも濃く深いと言っていいほどの、闇の執着と強い魔力を持っている。その欲望もまだ若く、溢れんばかりで結構なことだ。
「それならば、早速、美しい色欲の魔でも用意いたしましょうか。」
「いや…そういうのは不要だ。」
「ほう、ならば、どのような手配を?」
「人間界に行く。この魔界に、俺の欲する者は居ない。」
「人間界に?」
人間の住まう界にも様々なところがあるが、魔王が行かんとする界は、魔力の最も少ない界だという。果たしてそのような場所に、一界を為すほどの存在である魔界の王が、満足するような人間が居るのだろうか。だが、もし見つかれば、それは魔界にとっても大きな悦びになるだろう。
魔王の魔力は魔界を織り成す。その魔力が豊かであれば魔界も豊かになり、力強ければ強い界となり、寂しいものであれば哀れな界になる。奇妙に真面目な若い魔王は執着が深い性質で、伴侶はたった一人でいいと常日頃から言っていた。しかしその深い闇の魔力はいまだ相手が定まっておらず、孤独な情欲を持て余してぎらついている。魔界のどのような者を相手にしても彼は満足せず、それは単純に回数とか量とかの問題ではなく、魔王の心に叶うものがいないからだ…ということを、シャイターンは分かっている。
「お気をつけていってらっしゃいませ。ルチーフェロ様。」
シャイターンは深い追求もアドバイスもせず、ただ深々と魔王に一礼した。
「ぜひ、愛らしい花嫁を連れて帰ってきてくださいまし。」
魔王の情欲が満たされるときは魔界も満ち、その悦びは魔界の悦びとなる。魔王の孤独を癒す花嫁が存在するならば、必ず彼はそれを見つけることだろう。この歳若い才気溢れる魔王は、これまでのようなただ強く猛々しいだけの魔力ではなく、様々な感情に満ちた豊かな魔力をもたらすに違いない。
その日が来るのが、実に楽しみだ。
****
嵐雨の王ベルゼビュートと大海蛇レヴィアタンからの報告書に目を通しながら、宰相シャイターンは老眼鏡を手にふむふむと満足げに頷いた。どうやら魔王はその眼に叶う者を見つけたようで、時折、魔界の魔力も焦れたように揺れる。報告書に付随していた魔力を水鏡に移し、その姿を見てみると黒い髪に象牙色の肌の女が1人、映っていた。
「ほうほう。これはまた、愛らしい女性だの。」
それほど華やかではないが、物静かな表情が不意に柔らかに緩むことがある。さては、その表情の移り変わりに心惹かれたか。名前は坂野葉月という。魔王ルチーフェロはこの葉月を自分の花嫁に…と決めてから、どうやらその性欲も葉月にしか反応しなくなったらしい。それは大変な入れ込みようらしく、シャイターンからすれば魔王に不審な行動や発言がないかどうか心配だが、それでも彼女が花嫁であるならば、どのような手を使っても必ず魔王は手に入れるはずだ。若くとも魔王。欲望の深い魔族の王なのである。その気になれば、有無を言わさず連れ去ることなど容易い。もちろん、あの魔王はそのようなことはしないだろうが。
いずれにしろ、この女性が城に来ることになる。
「ふむふむ。」
シャイターンは白眉の下の眼を柔らかく動かした。執務机の上をトントンと指で叩き、「グレーモリーや。」…と呼ばわる。
少しの時を待って、執務室の扉を叩く音が響いた。シャイターンが「おはいり」というと、呼応して執務室の扉が開く。立っているのは黒と白のシンプルなドレスに身を包み、まっすぐな濃紺の髪を結わずに垂らした女だ。老いてもおらず若くもない。眼の色は薄い茶色で瞳孔が横に倒れた三日月のように細かった。
「お呼びでしょうかシャイターン様。」
魔王城の侍女を統括する侍女頭のグレーモリーもまた、城に仕える歴の長い魔族である。老眼鏡越しに上目遣いでその姿を確認すると、控えるグレーモリーに執務室のソファを勧めた。シャイターンもその前に座る。手に持った杖で床をトンと突くと、テーブルの上に先ほどまで覗き込んでいた水鏡と、それから何冊かの…人間の女がポーズを作っている本が並べられた。
「この水鏡の女性を。」
「これはまた、柔らかそうな可愛らしい女性ですこと。」
「魔王様が今心を砕かれておる女性だ。」
「まあ。」
それならば、とうとうお相手を見つけられたのですね…と、最近の魔界の魔力の揺れに気付いていたグレーモリーも得心したように頷く。
「うむ。いずれ、この女性が城にやってくることになる。」
「それはよろこばしい。脳に黴が生えたみたいにお堅いのか、緩いのかしか居ないこのお城に、こんなにも愛らしい方が来られるなんて。侍女たちも喜びますわ。」
「そうであろうそうであろう。そこで…だ。時に、グレーモリーよ。針子たちの手は空いておるか。」
シャイターンが並べていた本の一冊を取り上げて、グレーモリーに見せる。表紙を飾っているのは下着だけを身に付けた、グラマラスな金髪の女性だ。葉月の住まう人間界で流行している、下着専門のファッション雑誌だった。他にも様々なジャンルの服飾雑誌が並べてある。
「葉月様を迎えるにあたり、まずはルチーフェロ様好みの装いや下着を取り揃えるのがよかろうと思うてな。上手くできれば、葉月様がこちらに来られる前にいくつか送ってもよい。」
「お名前は葉月様、とおっしゃられるのですか?」
「瑞々しく、しとやかな、愛らしい響きよの。」
シャイターンがふおふおと笑い、グレーモリーがうんうんと頷く。そうだ!…と、パチン…と手のひらを合わせてから、グレーモリーが雑誌を開いた。
「でしたら、清楚なものと、大胆なもの、両方取り揃えましょう。」
「これなんぞはどうだ。夜着にするのもよさそうではないか。」
「まあ、キャミソールですわね。背中の開いたものや太腿の部分が透けているものもありますわ。可愛らしい。」
「ルチーフェロ様もお喜びになるであろう。」
透け感のあるシフォンやチュールを使ったものは、覆う面積が狭いわけではないのにどこか色めいている。白やブルーを使えば落ち着いた初心な風、赤や黒を使えば大胆に見えるだろう。象牙色の肌に映えるように少しぬくもりのある色の感じを出して、裾にあしらう刺繍はお針子達に任せて、めいめい腕を競わせても楽しいだろう。
グレーモリーとシャイターンは浮き浮きと、先だってどんなものを準備しておくか計画を立てていく。
「早く来てくださらないかしら。ああ、本当に楽しみですこと。」
「まあまあ、そう慌てるでないぞ。だが、確実に魔王様は葉月様を連れてこられるはずだ。」
「ああ、お食事など、お口に合うものもご用意しないといけませんし、…そうだ、お部屋も…。」
「寝室も寝台もひとつでよかろう。」
「そうですわね。」
そこはあっさりと同意し、グレーモリーとシャイターンは顔を見合わせる。料理長や庭師も巻き込んで仕事を相談しなければならないし、部屋の装丁も葉月好みにしなければ。葉月が魔王のもとから離れられぬよう、心地よく過ごしてもらわなければならないからだ。魔王が心置きなく葉月を食らい、葉月が何の憂いもなくそれを受け入れる。その環境こそが2人を満たして魔界を満たすのだから。
すぐさま葉月と魔王ルチーフェロの並んだ映像が関係者に配布され、その2人に似合うような生活空間の設計が始まった。
忙しく立ち回る魔族たちは、実に楽しそうである。
****
魔王が人間界でその情欲を解放した夜はすぐに分かった。
そうして魔界を満たす狂おしい夜を何度か重ね、いよいよ葉月に会いたいと城の者たちが待ち焦がれたころ、やっと魔王ルチーフェロが葉月を連れてやってきた。あらかじめ魔王やベルゼビュート、レヴィアタンの本性を見せられていたからか、城の者達に対しては控えめだがおびえた様子はないのが好ましい。リアルに爬虫類の姿であるものには多少驚いていたが、驚いて申し訳ないとおろおろしている姿もまた初々しい。
「これはこれは、葉月様。城の者たちは、みな、葉月様の来城をお待ちしておりました。」
「葉月。宰相シャイターンだ。この城にいる間は俺も側に居るが、もしも、もーしーも、ほんっとにもしもだが、俺が側に居ないときはシャイターンを呼べ。」
「高司さん、その、お仕事が忙しいなら、私のことは…。」
ルチーフェロに気を使っているのも慎ましやかでよろしいと、2人を見やりながら心の中でシャイターンは頷く。
「いや、ダメだ! 一緒にい…」
「ルチーフェロ様、さっそくですが目を通していただきたいことがございますので。」
「シャイターン!」
「炎の界が少しばかり近づいているようです。」
「分かっている。地獄が熱くなるのはどうでもいいが、弱いものは退避させておくように手配を…」
「ですからその手配を。」
「俺がいなくても…」
「四方位の王達は待ちくたびれておりますよ。」
「そのうち2人は魔界にいないだろうが!」
「だからこそ、です。さあさあ。」
シャイターンがルチーフェロの腕を取って、引き摺るように葉月と引き離す。それに葉月が追い討ちをかけた。
「大丈夫です、高司さん。お仕事してきてください。」
葉月が、ね…? と首を傾げると、ルチーフェロはぐっと言葉を詰まらせた。やがて、羽をしょんぼりと下ろす。
「せっかくの休みなのに葉月と一緒にいられないなんて。」
「高司さん。」
「人間界でも仕事をしているのに、魔界でも仕事三昧だなんて…」
「高司さん…。」
「それじゃあ、葉月を膝に乗せてだな…」
「ダメに決まってるでしょう!」
葉月が困ったように抗議していると、ぎゅう…とルチーフェロが葉月を抱きしめ、甘えるように肩に顎を乗せてきた。
「分かった。でも、後で一緒に夕食を食べて庭を歩こう。」
「お庭? 本当ですか、楽しみにしています。ええっと、…だから、あの…ちょっと離れて…」
「本当か! 楽しみか! よし、即片付ける。すぐに行く。待ってろ葉月!!」
人前で止めてください…と言われる前に、ちゅっちゅ…と葉月の瞼に2度口付けを落とし、急いたようにルチーフェロがその場から消え去った。さっさと仕事を終わらせるために、瞬間移動で執務室に戻ったのだろう。理由はどうあれ、仕事熱心なのはよろしいことだ。
さて、2人の仲睦まじい様子を見ていたシャイターンは、魔王の執務を手伝うつもりだったが気が変わって葉月をお茶に誘った。魔界についていろいろ聞きたいから…と葉月もそれを快く受け入れ、その後は、魔王城の番犬ケルベルスを紹介したり、侍女達と人間界のお菓子の話をしたり…と、実に楽しいお茶会になった。
決して、ルチーフェロが葉月を独り占めするのがけしからんとか、ここでの焦らしプレイはその後のルチーフェロの情欲の高まりに火をつけるだろうとか、そういうことを考えたわけではない。
だがとりあえずグレーモリーには、夕食の際に着るドレスと下着の準備および浴室の準備等、念入りにするようにと命じておいた。
****
「グレーモリーさん、ちょっと背中開き過ぎじゃないですか?」
「まあ! …今日は、宴席ではなくルチーフェロ様と内々のご食事ですもの。多少大胆であっても、見ているのは魔王様だけ。全く問題ありませんわ。」
「たかしさ…ルチーフェロ…だけなのですか?」
「正確にはシャイターン様とベルゼビュート様とレヴィアタン様がご参加です。」
「じゃあ、やっぱり見られるじゃないですか!」
「葉月様!」
「は、はいっ!?」
黒と白のシスター服のようなドレスに身を包んだ年齢不詳の侍女頭グレーモリーと侍女達が準備したのは、ブルーグレーのドレスだ。身体の線に沿うラインと、膝下の足が見える絶妙の丈のバランスが美しい。薄くて透ける素材と、切替しが胸元辺りにあることで、シックになりすぎずていないところが、葉月にも気兼ねなく着れそうだった。…が、一つ難を言えば、襟がホルターネックで首の後ろで結ぶタイプで、背中が葉月にしては少々大胆に開いている。しかも、結ぶリボンはフェイクではないから、引っ張ると脱げてしまうのが心許ない。
「それほどお背中は開いておりませんわ。ほら、下着も見えない程度ですもの。」
「で、でも…」
確かに背中の作りは意外としっかりとしていて、下着のラインは見えない。素材も極上で、素人目に見てもよいものなのだというのがすぐに知れる。ただ、こうしたドレスは身体のサイズをきちんと測らなければ作れないはずだ。ちなみに下着もきちんと全て用意されていた。サイズもぴったりで、胸の形を非常に美しく整えて見せている。デザインも素晴らしい。機能性と装飾性の2つを併せ持った高級そうな逸品だ。そもそもサイズとかいつのまに…と思ったが、葉月はそれは口にはしなかった。
まだ戸惑っている葉月の手を、グレーモリーがそっと握る。
「とってもよくお似合いですわ。」
それは確かにそうだった。葉月の眼から見ても、着た感じ全然違和感が無い。こういうタイプの服は、たとえば友達の結婚式とか…そういうときにしか機会は無いから何度も着たことがあるわけではないが、それを差し引いても自分によく合っている。それもそのはずで、魔界の者達が、葉月の体型、肌の色、瞳の色、髪の色、それらを全て考慮に入れて色柄・形をチョイスしているのだ。だから似合わないわけがない。
もちろんグレーモリーは、そうした葉月の懸念も見越して多くの服を取り揃えていた。
「しかし、葉月様がお気に召さないというのであれば、今ご用意できるのはこちらか…」
「それは前が開きすぎ…」
着ればおへそまで見えてしまいそうなほど、前ががっつり開いている。そう葉月が訴えると、グレーモリーは真顔で頷いた。
「葉月様、見せているのです。」
ぐ…と葉月は言葉に詰まる。
「では、これなどはいかがですか? スリットが太腿まで入っていてお足を綺麗に見せます。」
「ふ…ふとももではなくて、ウエストまで見えてませんかこれ…。」
「葉月様、見せているのです。」
ふたたびグレーモリーが真剣な顔で頷く。それを見た葉月が、がっくりとうなだれた。
「…今試着しているのでいいです。」
「まあ、そうですか…? お気に召したようでよかったですわ!」
観念した様子の葉月にグレーモリーが優しく笑って、さあさあ!…と侍女達に声を掛ける。侍女達は、手足の爪先から髪の毛一本にいたるまで葉月をぴかぴかに磨き上げるつもりだ。心地よいハンドスパとフットスパ、ヘッドスパのトリプルコースにさすがの葉月も気が緩む。
肌も髪もつやつやすべすべの手触り、想像出来るのはふっかふかの噛み心地と舌触り、魔王はきっと満足するに違いない。しかも身を包むドレスを留めるリボンは、思わず手を伸ばせばするりと解けるお楽しみ。仕上がった葉月を見て、グレーモリーは気付かれぬようににんまりと笑んだ。
こうして万全の準備が整ったところで、魔王ルチーフェロがやってくる。時間もばっちりだ。グレーモリーを筆頭とする侍女達が、さっと部屋の端に寄って静かに控えた。
「高司さん、お仕事お疲れ様です。」
ルチーフェロの姿に気付いた葉月が、柔らかな表情で立ち上がる。羽を揺らしながら部屋を横切り、まっすぐに葉月の元にやってきたルチーフェロは、その羽と腕で葉月の身体を包み込んだ。
「葉月!…葉月がそんな風な格好をしているところを初めて見たな。…よく似合っている。」
「…変ではないですか?」
「変どころかっ! …いつも綺麗だが、今日は見違えた。ああ…」
ぎゅ…と葉月を抱きしめる腕がきつくなる。夕食の前に食べてしまいたい。そんな飢えた情欲が湧いて出たルチーフェロが葉月の頬を包み込み、ぐ…と上を向かせる。覚えのある感覚に、葉月があわててルチーフェロから離れた。
「ダメです!」
「なぜ!」
「…こ、これから夕食なんでしょう?」
「だがこれくらいいいだろう。」
「量の問題じゃないって…あっ…」
引き寄せて、ちゅ…と葉月の唇を奪う。軽く触れて、そのまま唇を一口舐めた。ルチーフェロがすさまじく色っぽい瞳で笑みを向け、葉月の腰に手を回す。
「分かってる。おいで葉月。…グレーモリー、夕食の準備は?」
「もちろん、出来ております。こちらへ。」
つつがなく、魔王とその妃を食事の準備を整えた部屋へと案内した。
****
「お腹いっぱいです。とても美味しかった。」
「葉月。それはよかった。」
夕食も楽しく終わり、庭を探索しようという前に、ルチーフェロと葉月は2人きりでお茶を飲みながら食後の休憩を取っている。
まだまだ人間界の味には到達できません…と控えめな、城の料理人ニシュロクとデザート担当のダーガンという魔族が、遠慮がちに様子を伺いにきたがとんでもない。もっと突拍子もないものが出てきたらどうしようと思っていたが、普通に美味しい料理が出てきた。どちらかというと家庭料理風の、本当に普通の…煮物であるとか天ぷらであるとか、そういったものが出てきたのが可笑しかったが、どれも美味しくて感激だった。美味しかったと葉月が伝えると、触覚や羽をぱあああとざわめかせて一礼して出ていく。そんなやり取りの後、グレーモリーが出してくれたお茶を楽しむ。
皆が退出するとき、シャイターンがルチーフェロと何か小さく話していた。宰相と王…葉月には全く馴染みのない職業であり仕事ではあるが…2人の間では重要な話もあるのだろう。おとなしくソファに座っていると、ルチーフェロが戻ってきて「やっと2人になれた。」…と優しく葉月の身体を引き寄せた。
「魔界はどうだ。」
「…まだ、全然実感が沸かなくて。私の住んでいるところとは場所も人も違う…というのは分かりますけど、その、現実味が薄くて。」
「まだ来たばかりなのだからしょうがない。」
「でも、みんな、親切で…よかった。」
ルチーフェロが実に嬉しそうに頷き、そのまま葉月の身体を自分の上に横抱きにする。
「って、ちょっと!」
「ずっと仕事をしていたんだ。これくらいはいいだろう、葉月。」
「でも、庭を見に行くって。」
「庭は明日の朝でも見られる。」
「…明日の朝?」
それはどういう意味か…と問う前に、ルチーフェロの唇が葉月の顔に降りてくる。く…と塞いで絡み付くように舌を侵入させると、横抱きにして仰け反った身体が反応した。ルチーフェロの羽が葉月の上にふわりとかけられ、それがさわさわと太腿をまさぐる。
「で、も、…っ」
「よい香りがする。」
「高司さん!」
「ルチーフェロ。」
「ル…チーフェロ…」
「ああ…そうだ。もう一回呼んで…。」
じたばたと暴れかけた葉月の足をコウモリ羽が押さえ、首に掛かるリボンに手をかける。
絶妙な力加減で、そのリボンはしゅるりと解けた。
「葉月。」
ぞくりとする甘い声は、本性だからか。…それとも、魔王自身の為す魔界という界に来ているからか。葉月の抵抗を許さない、熱の籠もったバリトンが耳朶をくすぐった。
「…俺はまだ、食べ足りない。」
魔王は妃を抱き上げて立ち上がると、服が解けて露になった肌に顔を埋める。そのまま舌を這わせるとその感触に葉月が、うはん…と色っぽい声を上げた。そんな卑怯で甘い手管を使って葉月の動きを封じ込めながら、隣の寝室へとその身体を運ぶ。浴室の準備も寝台の準備も整っている。魔王が満足するのに、なんの不自由もないはずだ。
しかし、朝までに満足できればいいのだが。
****
魔王の魔力が悦びに吼えている。
魔界はすでに満ち足りていたが、魔王自身の魔力の高鳴りは魔王城に住まう上位の魔族には隠しきれるものではない。何しろ、魔王の魔力はこの魔界でもっとも上位でもっとも濃いのだから。
ふむふむとシャイターンは白眉の下の黄色い蛇の瞳を細めた。あの魔王の激しい情欲を受け止めて真綿のように包む葉月という存在は、レヴィアタンやベルゼビュートも言っていたが稀有で奇跡的な存在だ。魔界の魔力が細やかな感情の機微で満たされていくのはなんとも心地がよい。ルチーフェロの愉悦は、これまでの魔王と比べてもその濃密さは段違いで、それは若い段階で己の闇の魔力を満たすものを見つけたからだろう。伴侶と共にある…という希望に満ち足りた、実にいい魔力だ。
先代の魔王も人間の側室を迎えていたがそれはすでに晩年になっていたときで、人の子の柔軟な魂に魔王自身が満たされた時には最期が近かった。その時期に現出したルチーフェロは、人間の魂の心地よさ、柔軟さを知っているのかもしれない。
末永く魔王とその伴侶が共にあればいい。
魔界でもっとも狡猾でもっとも長く生きる魔族、蛇の王シャイターンはそのように思う。
「なんともよろこばしいことですな。」
ふおふおと笑いながらシャイターンは席を立った。窓の外に見えるのは、人間の界とほぼ変わらぬ月の夜。ひたひたと波打つのは、花嫁を迎えた魔界の愉悦。
――葉月様の首の後ろのリボンを解けば、簡単にドレスが開かれますぞ。
シャイターンの助言は役に立ったようだ。