それから王宮は俄かに忙しくなった。バジリウスの執務室に竜が飛び込んできたのは誰の目にも明らかだったし隠し通せるものではない。バジリウスはひとまず自宅謹慎となり、処分を待った。途中、理の賢者やヴィルレー公爵が面会をしていたようだ。後始末のためだろう。
ピウニー卿は人間に戻っている間に、ラディゲと共に国王と内々に謁見した。国王はピウニー卿の帰還を喜び、魔竜との和解の架け橋になったラディゲの功績を称えたが、国内に公表するのはまずピウニー卿の呪いが完全に解けてから……ということになった。2人は謹んでそれを受けた。国王と王太子は魔竜に呪いをかけたことを詫び、魔竜は今後同じことを繰り返さぬことを条件に不問に付した。
ただ、許したわけではない。今回の件で起きた全ての出来事、ピウニー卿とサティの出会い、2人との出会い。それらに免じて不問に付す……というだけのことだ。魔竜としては、ラディゲ、ピウニー卿、サティ、ヴェルレーン、3人の賢者という限られた人間に限り、力を貸してかまわないと約束したが、オリアーブの王族と直接交流するかについては、今後の動向次第ということにした。ちなみにラディゲはひとまず黒翼騎士団所属のまま、魔竜と王族との渉外役を務めることになっている。
理の賢者は、国王の要請通りジョシュの後見人となった。それには、ジョシュが使う魔法の手ほどきも含めている。理の賢者は、魔力抑制の魔法陣を確認した際にジョシュに問うた。
「……ワシならば、魔力を抑制した状態のまま、殿下の身体を健康なものにできますが、どうされますかな?」
その言葉にジョシュはきっぱりと首を振る。
「もしこの力が国のためになるのならば、僕は王太子としてそれを使いこなす必要があります。魔力抑制を外してください」
「決意はご立派じゃが、過剰な力は精神的にも毒になり得りますぞ。殿下は力に溺れず、使いこなす自信がおありかの」
その場に居たサティは思わず、師匠の横顔を伺った。師がこのようなことを言う、ということは、サティなど軽く超えるほどの、よほど大きな魔力を持っているのかもしれない。ジョシュは、今は人の姿のサティをちらりと見ると、強く頷いた。
「使いこなす自信は、正直言ってまだありません。ですが、溺れない自信はあります」
「よろしい。では、魔力の抑制を外しますかの」
理の賢者は、ジョシュの言葉に嬉しげに頷くと髭を撫でた。
****
「ジョシュ殿下、お加減はいかがですか?」
「サティ! よく来てくれたね。ピウニー卿も」
人の姿に戻っているサティが、ピウニー卿と共にジョシュの元にやってきた。サティの人の姿は、セピア色の髪とグリーンの瞳の女性だ。ジョシュはどちらの姿のサティにも会ったが、猫のときは気安く話すことが出来るのに、こうして人の姿で来られるとどうもそわそわしてしまう。
あれからすぐに、バジリウスと理の賢者によって魔力抑制の魔法陣は外された。ジョシュに大きな魔力の暴走が無かったのは、魔力抑制をジョシュの身体に対して直接行い、それを少しずつ外していく手法を取ったからだ。サティが幼い時に取った手法だが、ジョシュの場合はすでに年齢が高かったこともあって、サティが半年掛けたところを2週間で強行した。ジョシュの身体には大きな負担だっただろうが、彼はそれを乗り越えた。そして、もうひとつ、ジョシュを安定させる要因があった。
「今日も、さっきまでセラフィーナが来ていたから、今はとても楽なんだ」
「セラフィーナ嬢が?」
「うん。やっぱりフィーナのおまじないはよく効くんだよ。僕やプリムベルが唱えても、全然ダメで。……でも、誰が教えてくれたのか、教えてくれない。フィーナも魔法使いの素質があるんだろうか」
セラフィーナのおまじない。サティももちろん、聞き及んでいる。
<エーサワィヒス・オ・イエトゥーナ>
それは「安寧と歓喜が鍵である」という意味で、人の感情を利用した呪文の典型だ。ジョシュの安定を心から願う人が唱えて、初めて効果が発生する類の、まさに「おまじない」。恐らく、バジリウスが組んだものだ。
彼は理の賢者が王宮に来る……と知ったときに、自らの敗北を知ったときに、この呪文を作ったのだろう。誰かの手によってジョシュの魔力抑制が外れたときに、セラフィーナがジョシュの感情を安定させる鍵になるように、と。
サティの隣に静かに寄り添っているピウニー卿に、ジョシュは首を傾げる。
「父上のところに用があったの? ピウニー卿」
「いいえ。今日はジョシュ殿下にお会いしようと」
ピウニー卿の凛々しい瞳が優しげに細まる。1日の内、元に戻ることの出来る時間は8時間ほどなのだという。貴重な時間だから、てっきり国王に会うために人の姿を取って、そのついでにこちらに立ち寄ったのかと思ったが、自分のために2人揃ってきてくれるのはうれしかった。
特にピウニー卿は、まだ生きている……ということを王宮の人たちには知られていない。ピウニー卿は、事後処理もあって、理の賢者やサティと共に王宮の一部の区画に滞在しているが、一度人の姿に戻ってしまうと、顔を晒して王宮を歩くことが出来ない(別段ネズミのときも出歩けないので、あまり変わりは無い)そのような不自由も推して、こうして訪ねてきてくれることに、ジョシュは感謝を覚える。
サティの死の呪いをピウニー卿が解いた様子は、ジョシュの記憶にも新しい。誰も何も言わなかったが、2人の絆は誰の目にも明らかで余人の口の挟む余地は無かった。一体どんな冒険をして、2人はこんな風な2人になったのだろう。ジョシュは2人が仲良く並んでいる姿を見ると、とても心が和んだ。
ノックの音が響いた。現れたのは理の賢者だ。理の賢者はプリムベルとヴェルレーンを伴っている。プリムベルは賢者の娘であり弟子だから一緒に居るのは当然として、なぜヴェルレーンが一緒に居るのだろう。理の賢者は、このヴェルレーンという男を妙に気に入っていてよく使っていた。
「おや、ピウニー卿にサティも一緒じゃったか」
「師匠」
サティが椅子から立ち上がると、ピウニー卿も共に立ち上がった。ピウニー卿が一礼をして、理の賢者のために身を引いた。サティもピウニー卿の隣に立つのを見て、理の賢者がふぉふぉ……と笑う。その意味深?な笑みを受けて、ピウニー卿が口を開く。
「理の賢者殿、サティをお借りしております」
「かまわんかまわん。こっちこそ、サティをピウニー卿のところになかなかやれんかって、申し訳ないのう」
「え、いえ」
「ちょ、師匠」
気まずげに目を逸らすピウニー卿を見て、むっふっふ……と理の賢者は笑う。ジョシュの身体を魔力に慣らす2週間、魔力抑制の輪を徐々に弱めるために、次々と新しい魔法陣や呪文を開発せねばならず、サティとプリムベルは理の賢者に散々こき使われた。そのため、サティとピウニー卿は人の姿に戻るときと、獣の姿で休むときくらいしか顔を合わせることができていなかったのだ。
ピウニー卿自身も、国王を始め、ヴィルレー公爵やアルザス家の兄妹達への報告が多く忙しかった。そもそも人で居られる時間は8時間しかない。今日は久しぶりにゆっくりと、顔を合わせたところだった。
顔を合わせたら合わせたでここは王宮だ。何か気まずい。……が、ピウニー卿としては、そろそろ我慢の限界だった。
「ピウニー卿や、もうアルザス家の方には顔を出したのかの?」
「いえ、今日辺り一度帰ろうかと思っています。ネズミの姿に戻ってパヴェニーアと共に抜け出そうかと」
「ほほう」
「そのとき、サティも連れて行ってもかまわないでしょうか」
「えっ」……と初耳のサティが、ピウニー卿を見上げる。ピウニー卿はサティの視線には目を合わさずに、理の賢者の方を向いたままだ。
「ふぉっふぉっふぉ、かまわんよ。もうあとはプリムベルだけで間に合うじゃろうて」
「お父様……」
控えていたプリムベルはため息をついた。プリムベルはサティとピウニー卿の仲についてとやかく言うのは止めたようだ。とにかく、ピウニー卿がサティの呪いを解いたあの出来事は、衝撃的で有無を言わさないものだった。
「賢者殿がいらしたのであれば、私達はこれで下がって姿が戻るのを待ちましょう。……サティ、それまで部屋に戻っておこう」
「え、ええ、ああ。うん」
何、ピウニー卿とアルザス家に行くのは決定事項なのか。サティは妙におろおろしている。
「ピウニー卿」
ジョシュはソファから立ち上がると、ピウニー卿の傍らまで来た。ピウニー卿が膝を付いて、ジョシュを見上げる。
「あ、膝を付かなくてもいい。立ったままで」
ピウニー卿が立ち上がったのを確認して、ジョシュは視線を傾けた。
「まだ元には戻っていないの?」
「ええ。これからサティが身の内の魔力を解析しようかというところです」
「元には戻れそう?」
「……呪いの種類は分かったので、後は呪文を構築するだけですね」
その問いに答えたのはサティだ。そうか……とジョシュは頷いて、再びピウニー卿をじっと見つめる。
ジョシュは落ち着いてピウニー卿に会うようになって日が浅い。もちろん、魔竜討伐に行く前にも、見たことが無いわけではない。今までは遠くから幾度か見かけただけで、挨拶したことは無かった。
だが、若い騎士達が憧れを抱くように、ジョシュもピウニー卿に憧れていたのだ。部屋を出られない自分と違って、国中を旅する騎士。……ネズミのときはとても可愛いのに、人のときの彼の姿は大人の男の落ち着きと、騎士の雄々しさを兼ね備え、その姿は改めて眩しく見えた。
「元に戻って落ち着いたら、今度僕に剣を教えて欲しい」
「ジョシュ殿下」
ピウニー卿が再び膝を付いた。畏まるわけではなく、ジョシュに視線を合わせるためだ。すぐにそれが知れて、ジョシュは今度はピウニー卿を咎めなかった。
「ダメかな」
「いいえ。恐れ多くも、喜んで」
「ありがとう」
ジョシュが嬉しそうに微笑んだ。魔法使いの理の賢者と、サティ。騎士のピウニー卿。こんなに心強い人たちが増えるなんて、自分はとても恵まれている。
「ところで、サティや」
「なんですか、師匠」
ジョシュとピウニー卿が穏やかに歓談している横で、理の賢者がサティをそっと呼ばわった。
「ずうっと気になっておったんじゃがのう。……サティよ、まだ呪いは解けておらんのか?」
「……え?」
「ワシ、てっきり解けとると思うとったのじゃがの」
「はい?」
素っ頓狂な声を上げたのはピウニー卿だ。ジョシュと共に、理の賢者に注視している。この場合、解けた呪いというのはサティの死の呪い……では当然無くて、獣の姿になってしまう、あの呪い、だろうか。サティが理の賢者の言葉にふるふると頭を振る。
「え、いえ、でも師匠。まだ魔力や呪いの解析を始めたばっかりで……」
「いやいや、だって、この間、死の呪いが解けたじゃろ。ということは、2人の関係はアレじゃろ?」
何、アレって。
「いやあの、チャンスは一度きりだと……」
「じゃから、チャンスは一度というのは分かっておる。おぬしらはそれに成功したじゃろう?」
「…………え?……でも、中途半端に解けて2度は無い……って」
「最初に愛は育むものじゃと言うたではないか。最初のチャンスでちゃんと解けておったじゃろう。あの時、愛の力は呪いの魔力に絡まった。中途半端に解けたのがよい証拠じゃ。魔力は感情の動きにも関係すると、何度も教えたじゃろうがサティや。世界の例外処理も、基本の構造は一緒じゃよ」
理の賢者はやたら楽しそうだった。サティは師匠にいろいろ言いたいことはあったが、それらを全て堪えて必死で思い出す。あの時、師匠は何と言っていた。いつもヒントの少ない師匠は、弟子が自らの力で解にたどり着くまで由としない。
『それに愛は育むもので、チャンスは1回と相場が決められておるのじゃ!』
その言葉をサティが思い出した瞬間、理の賢者が髭を撫でた。
「チッスがきっかけで、愛や真心といった感情が呪いの魔力を覆い、解くのじゃ。ということは、愛が育まれば育まれるほど呪いは解け、いつか完全に無くなる……という仕組みじゃと思わんか? のう?」
何が「……のう?」……だ。師匠……!!
サティは、自分の辿りついた解に眩暈がした。そんな、まさか……。
「……な……な……。いつから、いつから解けて……」
「さあての……。じゃがまあ、姿形の変化は人の魔力が人の意識から離れた魔力に変わることから生まれたものじゃから、魔力の3分の1しか戻っておらん、とか、1日の3分の1しか戻れないとか、チッスで元に戻る……とか、そういう風に思い込んでおると、そのように表に出てくるものなのかもしれんのう。もっとも、その理論を証明したものはいまだかつておらんかったがの!……いやはや、魔力とはまことに不思議なものじゃよ。ふぉっふぉっふぉっふぉ!」
「……し、ししょう」
「なんじゃ? 図で説明したほうがよいかの、しようのない弟子じゃのう……」
「だーーーーー!! いいです、図はいいです!」
理の賢者が杖を引き寄せて、ほいほいと空中に何かを書き始めると、その軌跡が線になって空中に残る。剣を持ったネズミが木にぶつかった図、ぐったりと倒れたネズミを前に、猫がしくしく泣いている図、ネズミと猫が顔を寄せ合って口元ペロ……やめてーーー!師匠やめてーーー!!
サティがわっさわっさと空中の絵をかき消している間、ピウニー卿は顎に手をあてて、何かを考えている様子だ。
「……ということは、理の賢者殿。……私達は、もう元に戻ったと考えてもよろしいのでしょうか。愛の力で完全に呪いを解いているのだから、それを意識していれば魔力もそれに伴う……と」
「その通りじゃ、ピウニー卿。サティよりも物分りがよいのう。ワシの弟子にしたいくらいじゃな! それに少なくとも、ピウニー卿からサティのベクトルに関して、愛の力は証明されておるしのう」
今、はっきり言いましたね。「愛の力」と。ピウニー卿と理の賢者と、1回ずつ。
しかも、もしかしたら知らないうちに呪い解けてましたとか、解けてたくせに刷り込み理論で猫とネズミになっていましたとか、そんなの……。
いやいやいやいや。
「ちょ、ちょっと待って! 完全に解けてるなら、どう考えてもその時点で猫になるのはおかしいでしょ? 人を形成できない魔力……っていうか、猫を形成してしまう魔力が残ってるから、猫になるのであって……」
「サティ、元に戻りたくないのか?」
ピウニー卿がサティの肩をがしっ……と掴み、気圧されたサティは慌てて首を振った。
「違うわよ! 戻りたいけど、でも、理論的にそれは……」
「ふぉふぉふぉ……それについては、もう少し調べてみる余地はあるじゃろうのう。……だが、サティよ、気付いておらんか? 自分たちの魔力が元に戻っているのを」
「それは……」
「それに、理論より大切なことがあるじゃろう?」
死の呪いからサティを救ったのはピウニー卿(の愛)だったらしい。事件の時、羞恥心は限界だったため、サティはピウニー卿にあの時のことをはっきりとは問い質していない。こうして改めて言われると……。
サティはピウニー卿をちらりと伺ってみた。ピウニー卿はじっとサティを見つめている。あまりに強い眼差しを受けて、サティの顔は熱くなった。思わず目を逸らして自分の頬に手を当てる。
何これ……眩しい。煌びやか過ぎる。男前すぎる。精悍すぎて、真面目で、頑なで、自分の好きな……人で。じゃなくて、肩に手が。手を離して! みんないるんだから手を離してーーー!!
サティは、ピウニー卿の手を掴むと、ぐぐぐぐ……と肩から外させた。
あと、そこまで期待満面で見られると逆に困る。そう思ってもう一度目をあわせる。ピウニー卿がサティの頬に手を伸ばしてそっと触れ、瞳を細めてゆっくりと笑った。……ああああ、今、ジョシュとかプリムベルとかヴェルレーンとかの目の前なんだから、そんな顔をするなこの騎士めがーーー!!
「ピウ……あの、」
「ともかく、話は分かりました。……実家で試しに様子を見てみましょう。サティ、帰るぞ!」
「えっ? 今から?」
「今からだ。ジョシュ殿下、御前失礼いたします」
「うん。元に戻ったら、約束だよ、ピウニー卿」
「ええ、是非とも。理の賢者殿も……サティをお借りいたします」
「ふぉふぉふぉ。サティはしばし、アルザス家に滞在する……ということでよろしいのかの」
「はい。それでは。サティ、行くぞ」
ピウニー卿はジョシュと理の賢者に一礼すると、サティの手を掴んで扉へと歩いていく。
「ちょ、ま、何強引に……ピウ、ピウニーーーー!!顔!顔バレするから!」
「隠せば問題ない!おい、ヴェルレーン、悪いが俺達を外まで連れ出してくれ」
顔を兜やローブで隠した人物がいかに怪しくても、ヴェルレーンなどが連れていれば外に出ることができる。
「ちょっと待ちなさいってーーー!!」
にこにこしているジョシュと理の賢者、そしてやれやれと溜息をつくプリムベルを残して、ピウニー卿は半ば引きずるようにサティを連れて出て行った。渋々後を追おうとしたヴェルレーンだったが、側にいたプリムベルにそっと耳打ちする。
「……理の賢者、家に最初に戻ってきた時点で、絶対知ってましたよねアレ……」
「お父様のことですから、もっと早い段階で気付いてたと思いますわ……」
「え……、それで黙ってたんですか」
「世界の例外処理理論の実際を間近で見られることなんて、なかなか無いからかと……」
「ヴェルレーン!」
「分かりましたってば、ピウニー卿!……もう、人のことをこき使って……。はいはい、今参りますよ、ちょっと待ってください!」
自分を呼ばわるピウニー卿の声に、ああもう……と返事をしながら、ヴェルレーンは思う。今回の件……さて、一体、どこからどこまで理の賢者の手のひらの上で踊らされていたのだろうか……と。