最終章 旅の続き

041.お腹のふかふか

「ピウ……ひげ、くすぐったい……」

「……サティ?」

アルザス家の離れの客用寝室で、ピウニー卿は目が覚めた。いつも聞いているサティの声に、瞼が開いたのだ。頬に触れるのはセピア色の髪の毛。腕の中には柔らかな身体。少し顔を離してみると、目の前には眠っているサティの顔があった。今は目を閉ざしているが、開けば綺麗なグリーンであることを、ピウニー卿は知っている。

可愛らしいサティの寝言に、ピウニー卿は抱き寄せる腕に力を少し入れた。サティの全てを堪能した昨夜のことを思い出すと、幸福なため息ばかり零れる。甘い肌触りと耳朶をくすぐる切なげな声が愛しくて、つい調子に乗った。止まらなかったというか、止められなかったというか……。

ピウニー卿はサティを起こさないようにそっと、髪の毛を撫でた。「……ん」小さな吐息が零れて、サティが猫のように自分の胸に擦り寄ってくる。ピウニー卿はサティの背中に手を滑らせて腰を引き寄せ、身体全体を使って抱きしめた。

****

ジョシュの下を訪ね、理の賢者から「呪いは解かれたのではないか」という話を聞いて居ても立ってもいられなくなったピウニー卿は、すぐさま王宮を辞して実家に戻った。もちろん、パヴェニーアの妻セシルとアルザス家の執事、侍女頭は心得たもので、素早く離れを準備すると2人を通してくれたのだ。

本当にネズミと猫に戻らないのだろうか……と、ピウニー卿は気が気ではなかった。ああは言ったものの、愛の力を信じれば魔力は揺らがず元には戻らない……などということが、本当にありえるのだろうか。だが、用意された夕食を取り、僅かに酒盃を傾けても2人は人の姿のままだった。

ピウニー卿はその間も、ずっとサティに触れてみたくて仕方が無かったが、当のサティは心ここにあらず……といった様子だ。時折、「いや、でもあの呪いの形式からいって魔力は……」などと、理の賢者が解説した理論について、難しい顔をして考え込んでいる。目があっても、つい……と逸らされてしまい、まるで今までの2人に戻ったようだ。

「本当に、このまま人の姿のままなのだろうか」

過去の様々な出来事が思い出され、ぽつりとピウニー卿は言う。手に持った酒盃を傾け、舐めるようにそれを喉に流した。しかし、少し寂しい気もする。……のは気のせいだろうか。待て、こういう気持ちがよくないのだ。ピウニー卿は頭を振った。

「うーん……」

サティは少し首を傾げると、隣に座っているピウニー卿との距離を詰める。急に側近くに来たサティの頬に、ピウニー卿は思わず触れる。だが色めいた雰囲気にはならず、サティはなにやら真剣に、ピウニー卿の額に手を当てた。

「サティ?」

その手のひらの温かさにピウニー卿がサティを見下ろすと、グリーンの瞳が自分の瞳を覗き込んでいた。

「……多分だけど、ピウの魔力は元に戻ってる……と思う。元々の魔力量を知っているわけじゃないから、なんとも言えないけど……少なくとも、ピウに最初に会ったときから比べると、格段に増えてるから……」

サティはピウニー卿の額から手を離すと、溜息を付いた。

「やっぱりプリムベルを助けたときに、もっとちゃんと真剣に調べておけばよかった。……それなら早く気付けたかもしれないのに」

はっきり知れたのは、プリムベルを助けたときだ。あの時、インプを一撃で落としたあの威力。マハの剣の威力に気を取られて、きちんと調べなかったのが悪かった。というよりも、むしろ自分の魔力だ。違和感はまだあるが、量は戻っている。それこそ、いつからだろう……いつ、戻ったのだろう。愛の力で元に戻ったというのならば、

いつから、自分は。

そこまで考えが至って、サティは急にピウニー卿への思いで胸が詰まった。何かの病気かと思うほど、心臓が鼓動を打ち始め、ピウニー卿に聞こえてしまいそうだ。苦しくて、思わず、は……と息を吐く。その吐息に誘われたように、ピウニー卿はサティに手を伸ばした。

「もういいサティ」

額から離れた手が名残惜しい。そんなに熱い息を吐くな。ピウニー卿はサティの身体に手を回して引き寄せた。強引な動きではないが、2人の距離が近づき、近づくに任せて互いの唇が触れ合う。

「戻らないな?」

ピウニー卿は少しだけ唇を離して、小さく笑った。まだ触れそうな距離にあるピウニー卿の顔に、サティは頬を染め、羞恥を誤魔化すように身を離した。

「ピウニー、あ、あの」

「なんだ?」

「……あの、話があるって……」

「ああ……」

サティに思いを伝えようと思っていたときの、あの話のことか。そういえば、きちんと話していなかった。忘れていたわけではない。ただ、ピウニー卿の中には、急いた気持ちと揺ぎ無い確信がせめぎあっていて、どちらもサティを求めている。話せば想いが溢れそうで、自分を抑えきれる自信が無かった。だからこそ、何度も好きなだけ、サティに気持ちを伝えられる時間を作りたいと思っていたのだ。それでこの2週間は、サティに手を出さなかった。

ピウニー卿は離れたサティを追い詰めると、その頬に小さく口付けをして囁く。

「もう話してあるんだが、……では、後でもう一度話そう」

「え?」

「……で、サティの話とはなんだ」

「えっと……」

話しやすいように、ピウニー卿は少しサティから離れてやった。

サティの瞳がうろうろとしていたが、やがて意を決したようにピウニー卿を見つめる。「ピウニー、あのね」

「……私、ピウニーの事が好きよ?」

ピウニー卿の顔がきょとんとした。精悍で渋みのあるこの顔が自分に対してこんな表情を向けると、ひどく距離が近づいた気がする。サティは嬉しくなって、微笑んだ。もっと緊張するかと思っていたのに、言ってみると胸に素直に落ちる。

「だから……ピウが、私のこと関係ないって言っても、元通り王様の命令で国中を旅することになっても、……しつこく着いていくから……だから……」

サティの視界が塞がった。きつく抱きしめられ、深く口付けられたのだ。ストップストップ! 声出ないし何か入ってきたし待って!

話の、途中です、ピウニー!

「……んんーーー……ちょ、待、ってって、ちょっと、ピウ!」

「途中で止めないでくれ、サティ」

「途中で遮ったのはピウニーでしょう」

「いやそうではなくて」

「話し終わってないのよ最後まで聞いて!」

「す、すまん」

あーーーもーーーー、と言いながら、サティは腕を突っ張りピウニー卿との距離を離す。はあ……と一息ついて、サティはピウニー卿に向き直り、両手で頬を挟んでこげ茶色の瞳を覗き込んだ。手にざらりと無精髭が触れ、それをなぞるようにそっと指を動かす。

「ねえ、愛してるわピウニー。大好きよ」

ピウニー卿の瞳が驚いたように見開かれ、吸い込まれるようにサティに近づく。再びサティの視界が塞がる……、その前に、サティは頬に当てていた手をピウニー卿の逞しい首に巻きつけて、抱きついた。上手くかわされたピウニー卿は、非難がましくサティの名を呼ぶ。

「サティ……!」

「よし、勝った」

「……勝った?」

抱きついてきたサティの背中に、思わず腕を回したピウニー卿は、自分に掛かってきた体重を心地よく感じながら首を傾げた。

「そうよ。先に言ったほうが勝ち」

それを聞いたピウニー卿が、無精髭の口元を笑みの形に象った。サティの頭を撫で、腕に力を込める。ずっとこうして触れたかった、サティの柔らかい髪。一番最初に触れたあの時から、ずっと変わらない。セピア色の長い髪は絹のような手触りで、猫の時のサティの毛並みを思い出す。徐々に腕を下ろしていき、細い腰のくびれに手を回した。

「それなら、俺の勝ちだ。残念だったなサティ」

「え?」

「あの時お前の呪いを解いたのは誰だと思っている」

「ええ?」

「なんなら、ジョシュ殿下やラディゲやヴェルレーンに聞いてみるか?」

「えええ?」

「あの時は生きた心地がしなかったからな。必死でお前に訴えた」

「な、なななんて……」

「もう一度聞きたいか?サティ」

いつの時のことか、はっきりと知れてサティは嬉しいやら恥かしいやらで顔が熱くなる。だって記憶に無いし、ノーカンじゃないの!? っていうか、みんなの前で言ってたの、何を言ってたの? でも……。

「私は聞いてない」

「ああ、そうだったな」

拗ねたサティの声に、ピウニー卿は子供をあやすようにサティの頭を撫でた。一度顔を離して、グリーンの瞳を見つめる。

「愛してる、サティ」

「…………泣くほど?」

ピウニー卿はサティを見つめた。サティは頬を染めて、少しだけ、悔しそうな顔をしている。その表情に、ピウニー卿が優しく笑う。

「ああ。俺を泣かせるのはお前だけだサティ」

このままだと悔しくて、ピウニー卿に負けたくなくて、言ってみたのに、それなのに。

「愛しているんだ。だから、いつまでも俺と一緒に居てくれ」

やっぱり人の姿のピウニー卿には敵わないではないか。だけどこの人に負けるのだったら、まあいいか。いいよね。サティはピウニー卿に身を摺り寄せた。

思いが伝わったらそれが終わりではない。やっとここから始まるのだ。

ピウニー卿はその身体を逃さないようにしっかりと抱きしめる。顔を寄せて、唇を重ねた。咥えるように口付けて、しっとりとした低い声で、もう一度言う。

「愛してる、サティ」

……と。

****

目が覚めたら、目の前にピウニー卿の鎖骨があった。頬に当たるのは滑らかなのに弾力がある、筋肉質の胸。疲労感で寝ぼけたサティには、一瞬状況が認識できない。

「ん……ピウ……?」

サティの声に呼応するように、身体に巻きつけられた太い腕に力が込もったのが分かる。

把握。

そうだった。身体がものすごくだるくて足の付け根が軋むように痛い理由も、1つの寝台でネズミを抱き寄せているのではなく、無精髭のピウニー卿に抱き寄せられている事情も全部思い出した。抱き寄せ……抱き……うわあ……なんだこの状況。

身体に触れているのは腕だけではなかった。サティは抱き枕か何かのようにピウニー卿に絡みつかれていて、足も腰もがっしり固定されている。しかも、……日が高い。今何時だ。そして、起き抜け。起き抜けだから仕方がない、とかなんとか、以前ピウニー卿が言っていたが……。……サティは、正直よくこれで眠れたな……と思う。

ピウニー卿は一晩中甘い言葉を囁いていたが、言ってることとヤッてることが全然違っているし。

そもそも、あれほど身体的柔軟性の高さが要求されるとは、師匠の揃えている恋愛小説にも掲載されていなかったし、あんなアクロバティックな動きを強いられるとは予想もつかなかった。しかも途中で一緒にお風呂に入るとか、どういうことだ。

別にサティが激しくどうこうした……というわけではない。主にピウニー卿が頑張っていたのだが……。もちろん、痛かったのは痛かった。親指と人差し指の間の水かきが……などと比喩される通りだ。でも、それも一瞬で、あとはそんなには……むしろ……幸福感がそれを上塗りしてなんというか……。

ふおおおおおお。ダメだ、これ以上考えると激しく恥ずかしい。

「サティ……」

なんて甘い声を出すんだろう。昨晩散々聞かされた後なのに、こうして耳元で囁かれるとまた心臓が跳ね上がる。ピウニー卿の唇がサティの髪に触れ、顔の輪郭をなぞるように降りてきた。

「サティ……。大丈夫か?」

「何が……?」

「すまない。一晩中、お前を離せなかった」

恥かしくなるからそういうことを言わないでほしい。そう思っていると、顔をなぞっていた唇が、耳元を音を立てて口付けた。その感触にピク……と震えたサティが思わず顔を上げる。その視線を受け止めるピウニー卿は、心配そうな、だがとても愛おしいものを見つめるような表情だ。

真面目で、頑ななピウニー卿の、その頑なさが、今は一心にサティへの思いへ傾けられていて、それがサティにはうれしくてくすぐったい。そして、同じだけのものを返したくてたまらない。サティは、きゅ……とピウニー卿の肩にすがりついた。

「別に……無理してない。それにピウニーとだから平気」

幸せな気分は本当だ。

「そんな風に言うから、止まらなくなるんだろう。サティ」

ピウニー卿が熱い息を吐いて、その手が、……いや手だけではなく身体全体が、再び不謹慎な動きを始めた。サティがグリーンの瞳でピウニー卿を見つめると、一瞬こげ茶の瞳と目があって、その瞳が嬉しそうに細められて唇が触れ合う。どちらからともなく深く絡まりあい、想いが交換されて……重なって、そして……

ふかふかして。

……ふかふか?

「……んん……?」

「さ、ささ、サティ……!」

急に自分を包み込む腕が無くなり、口元にふかふかの感触が触れる。なんだかぴちぴちしたものが、自分の口元を這い回っていてやがてそれがころころと転がっていった。枕を転がり落ちシーツの中に入り込み、サティの鎖骨から胸元にかけて、いろんな意味でギリギリの部分に、そのふかふかが止まる。まさか。

「あ、や、ちょ……待って、暴れないで!」

胸元をちくちくしたものが這い回り、思わずサティはそれを手で押さえ込む。「ふがっ」という悲鳴が響いて、サティはそのふかふかを摘み上げた。

「……ピウニー……?」

「サティ……!」

自分の手の中でじたばたしているのは、金色の毛皮のネズミだ。サティはシーツを身体に巻きつけて起き上がった。

「……どういうこと?」

「……くっ、俺がっ!……俺が聞きたい……っ!」

人のサティとネズミのピウニー卿。
いつにない逆転劇に思わずサティはにんまり笑った。

「ちょっと太ったんじゃないピウ?」

「……なっ、ネズミの姿だからそう見えるだけだ!」

ピウニー卿の腹筋はそれは見事なものだった。だが、ふっくら柔らかなネズミの太ましいお腹もまた可愛らしいではないか。サティはそっと枕にピウニー卿を下ろすと、お腹のふかふかを指でこちょこちょくすぐった。昨晩のお返しだ。これくらいは許されるだろう。

「ちょ、うはっ、やめっ、サティ、こらっ……!」

ピウニー卿の抗議の声を聞きつつ、思案する。さて、これはまた、どうしたものか。