オリアーブ国の辺境にある小さな村の小さな酒場。
ここは、かつて竜殺しの騎士ピウニー卿と呼ばれ、今は竜剣の騎士ピウニー卿と呼ばれている、オリアーブで最も有名な騎士が行きつけにしていた酒場だ。
ピウニー卿が入れていた酒が何者かに開けられる……という事件が起こり、死んだピウニー卿が幽霊となって出てきた……という噂が広がったのが2年と少し前。そのピウニー卿が実は生きていて、魔竜と和解して帰還した……という知らせが届いたのは1年前だ。
ピウニー卿が生きていたのなら、ボトルを開けたのは一体誰なのか、と、噂はミステリアスな方向へと伝わり、いろんな意味でもこの酒場は有名になった。実は主人が名を売るためにそういう噂を流したのではないか、などとあらぬ疑いをかけられたこともあったが、今ではそういった噂も収まり、小さいながらも、ピウニー卿に憧れる若い旅人や駐留兵士などがよく訪ね、ほどよい活気に溢れた酒場になっていた。
現在王都では、ピウニー卿と和解した魔竜との協力によって、魔物の沈静化に力を入れている。魔竜の復活に一時騒然となったオリアーブだったが、一連の出来事を、国王は包み隠さず公表した。王都に降り立ち、国王と王太子、3人の賢者、そしてピウニー卿らと共に並び立った黒鱗の魔竜の姿に、人々は、魔竜という存在と敵対するのではなく和解することを、戸惑いながらも受け入れた。
なんでも、現在は親衛隊に所属する黒髪の騎士が魔竜との渉外を行っているそうで、グラネク山にはその騎士が駐留するための詰め所が置かれているらしい。いまだ王家との正式な和解は為されていないがその関係は順調で、魔竜に子が生まれ、オリアーブ国王が祝辞を送ったのは記憶に新しい出来事だ。
宮廷においては、先王の代より国の政治の中枢にいたバジリウスが、魔竜の件によって失脚し、ヴィルレー公爵アンヘルが後任に就いた。バジリウスの退任と、第二王子誕生によって当時大きく揺れた宮廷だったが、ヴィルレー公爵の穏やかながらも隙の無い振る舞いによって、それらが収まるのもすぐだったという。新しい宰相は、若い王太子を指導しながら、共に国王の新たな力となっている。
第二王子の誕生によって地位が危ぶまれるかと思ったその王太子ジョシュだったが、理の賢者が後見人となり、この1年で魔法使いとして大きな能力を開花させている。まだまだ習うべきことは多いが、剣を持って減衰してもなお豊富な魔力は、理の賢者以来の魔力かもしれない……との噂だ。その王子のために、杖と剣の賢者が、双方の理論を持って、現在剣を作成しているところである。
病床から復帰した王太子ジョシュが13歳ながら一部を任されているのが、海を越えた東の大陸との交易だ。オリアーブ国が位置する大陸にあって、いち早く東の大陸へと国の要人を送り込んだジョシュは、貿易の品だけではなく、東の大陸の魔法や技を取り入れようと画策しているらしい。その力の要になっているのが、実は失脚した元宰相バジリウスだ。彼は東の大陸に左遷された。彼の地を調査し、オリアーブから派遣される重鎮らの橋渡し役を務めている。そのバジリウスの隣には、常に濃茶色の髪の女性が付き従っているという。余談ではあるが、バジリウスは生涯オリアーブの地を踏むことは無かった。
酒場の扉が開いた。
「いらっしゃい。すまんが、まだ開店前なんだ。もう少し遅くなってから来てくれないか」
「部屋を取りたいんだが」
今は中途半端な時間で、開店には少し早い。主は怪訝そうに振り向いた。
そこには、旅装の騎士が1人立っている。肩には小柄な猫が乗っていた。騎士は硬質な足音を立てて酒場を横切り、カウンターの前で足を止める。
薄い色合いの金髪に無精髭。精悍な顔にこげ茶色の瞳が凛々しい男だ。酒場の主には微かに見覚えがある。
なぜなら。
「……も、もしかして……あんた……」
「久しいな」
「ピウニー卿ですかい!」
「覚えてくれていたか。……店主、よければ何か、一杯もらえないか?」
「はっ、はい、もちろんで!」
カウンターに騎士が座ると、セピア色の猫がその膝に乗り、クルクルと喉を鳴らしながら男の胸元に頭を摺り寄せた。騎士はその毛皮を愛しげにくすぐりながら、出された酒盃に口を付ける。
「あの……本当にピウニー卿ですか?」
「随分来ていなかったから、忘れるのも無理は無い」
「違いますっ、忘れたんではなくて……その、ピウニー卿ほどの人がこんな酒場覚えているわけがないと……」
「ここを拠点にしていた頃は、私も若かったがな。……酒も入れていた。忘れるはずが無かろう」
騎士は小さく笑う。しばらく猫の背を撫でながら懐かしそうに酒場の中を見渡していたが、酒盃を煽ってそれを置いた。
「ここは確か宿もあるだろう。一部屋借りても?」
「は、はいっ、あの、でも、この村にはもう少しいい宿がありますが……」
「連れがここの料理を食べたいと言っていてな」
「は、はあ……そりゃ光栄なことです。うちは料理も自慢なんで、って……連れ?」
「2人分、前金はここに置いておくぞ。鍵を貰っても?」
「ふ、ふたりぶん? 多すぎですよ、猫の分は……」
「1人分しか払わなかったら怒られるんでな。夕食は2人分用意しておいてくれ」
ふ……と笑って、騎士は代金と引き換えに、店主から部屋の鍵を貰うと立ち上がった。片手で猫の身体を抱き上げている。呆気に取られた店主を背に、勝手知ったる様子で、トントン……と部屋のある2階へと登っていった。
その背を見送りながら、あの猫……2年とちょっと前に、少しの間うちに置いていた猫に似てるな……と、店主が思っていると、階段を上りきる前に騎士が振り向いた。
「昔入れていた酒はあるか?」
「あ、ピウニー卿が入れていたものは残念ながら質が落ちていて飾りになっていますが、同じ種類のものなら」
騎士は、はっは……と笑って、頷いた。
「ならば夕食には、その果実酒とアオカビのチーズを肴に付けてくれないか?」
「は、はい! 時間になったらお呼びします!」
「頼む」
今度こそ、騎士は2階へと消えた。
****
旅装を解いて楽な格好になると、ピウニー卿は寝台の上にごろりと転がった。猫のサティの両脇を抱えるように持ち上げ、自分の胸板の上に乗せるとその背を撫でる。柔らかな毛皮が手のひらに心地よい。
「懐かしいな」
「懐かしいね」
すり……と、サティはピウニー卿の顎に自分の頭を摺り寄せた。
1年前のあの日、やっと呪いが解けたか……と思った2人の身体だったが、思わぬことが起きた。ピウニー卿も、サティも、不意に獣の姿に戻ってしまったのだ。しかも、2人とも全く異なるタイミングで。すぐに人間の姿に戻ったからよかったものの、これは不味い……と、理の賢者に相談した。
よくよく調べてみると、姿形を変えてしまう原因になった魔力の一部が、自分たち自身の魔力に定着してしまっていた。どうやっても、その一部の魔力は消えなかったのだ。理の賢者によれば、もはや自分の魔力になってしまっている……という。長い間獣の姿で、お互い心地よく過ごしていたのが原因だったようで、理の賢者は、ネズミや猫の姿もまんざらではないんじゃろ?……とだけ言った。
最初のうちは、2人ともその魔力の一部を上手く使いこなすことができなかった。獣から人間に戻るときは強く自分の魔力を意識すればいいのだが、獣になってしまうときは唐突だ。大体が、2人っきりで気分が盛り上がった後、気が緩むとくるりと姿が入れ替わってしまう。
慣れない頃は、2人ともバタバタしていた。
「おい待て尻尾が触れ……尻尾……そこは……うぐ……」「変な声出さないでよ、ちょっと、あ……、尻尾触らないで……」とか、「ちくちくするくすぐったいやめて降りて動かないで!」「降りるか止まるかどっちだ。おっと」などなど。バタバタしすぎて、扉の外を通りかかったパヴェニーアが赤面するほどだった。本人たちから見ると、赤面している場合などではないのだが。
サティはさすが魔法使い……と言ったところか。それともよほど危機感があったのか。すぐさま、自分の中の2種類の魔力を操り、猫やネズミになったり元に戻ったりするための呪文を開発した。3日3晩部屋に篭って真剣に研究した。そのおかげで、今では2人とも安定して、自在にネズミや猫に変身することが出来るようになっている。一連の事件の、思わぬ副産物だった。
ちなみにサティは、人間のピウニー卿の膝の上でゴロゴロするのが大好きだ。ピウニー卿も、サティが猫になれば片手で持ち上げたり肩に乗せたりできるため、いい気分らしい。「猫にならないのか?」と聞くほどだ。実のところ、サティが猫になっていれば、人が居ても堂々と抱き寄せたり、頭を撫でたり出来るから……という騎士らしからぬ不埒な理由もあるが、それは己の心に仕舞っている。
だが、ピウニー卿は狭い所に入るとか、サティの腕の中に隠れるとか、サティが猫になっているとか、そういう状況でない限りはなかなかネズミになってくれない。サティにはそれが若干、不満だ。
そして、今。
2人は、お互いが一番最初に出会った酒場に来ていた。
ピウニー卿はオリアーブ国王の前に帰還を果たした後、再び国王の命により、魔竜の協力の下、魔物の調査のために国中を旅していた。もちろん今度は、愛する魔法使いのサティと共に。
多くの遺跡や洞窟、廃墟などをめぐり、そこに巣食う魔物と魔力の流れ、凶暴化しやすい魔物、沈静化が有効な魔物、もとより凶暴な魔物……などを調査し、沈静が必要な箇所はそれを行い、時には町や村の依頼によって魔物の討伐を行っているのである。
「……サティ」
「なあに?」
「そろそろ、王都に落ち着いてもよいだろう、と陛下が仰っている」
「王様が?」
「ジョシュ殿下との約束も果たさねばならん」
「そうね」
ピウニー卿とサティは時折王都に帰ってはいたが、基本的に2人きりの旅を楽しんでいた。だが、ジョシュの王太子としての指導も本格的に始まった頃だ。国王からの要請であれば致し方なし。しばらくは、王都に戻ってゆっくりしてもいいかもしれない。
「それにサティ」
「ん?」
「そろそろお前と、新婚生活とやらを楽しみたいものだ」
実は、前回王都に戻ったときに、ピウニー卿の両親がアルザス家に戻っていて、未婚のお嬢さんを引っ張りまわすんじゃない!……と、(ピウニー卿が)こっぴどく怒られたのだ。……で、あれよあれよという間に、結婚の儀式っぽいものをさせられ、名実共に、ピウニー卿とサティは夫婦になっていた。
サティはピウニー卿の胸板から降りると、肩と首の間に頭を摺り寄せた。ピウニー卿の首筋をざらりと舐めて身体を丸める。尻尾がたふたふと揺れていた。
「そうね。私もゆっくり、ジョシュ殿下に会いたいかな」
「なんだそれは」
む……とピウニー卿が起き上がり、丸くなっている猫のサティの背中に口付けるように顔を埋めた。ピウニー卿の大きな手がサティの耳の裏をくすぐると、ごろごろと心地よさげに喉が鳴り、その様子にピウニー卿は楽しげに瞳を細める。
ピウニー卿は再び横になり肘を付くと、片方の腕でサティの小さな身体に寝台の掛け布を掛けた。その布に包んだまま引き寄せる。
「……サティ、人間に戻らないのか?」
「どうしようかな」
「サティ」
抗議の声を上げるピウニー卿に、サティは身体を摺り寄せた。
「ねえ、ピウ?……王都に戻ってしばらくしたら、また旅に出たくなるんじゃないの?」
「ん?」
次の瞬間にはもう、ピウニー卿の手の平に布越しの柔らかな女の曲線が触れる。
腕の中で自分を見上げているのは、セピア色の髪に綺麗なグリーンの瞳のサティ。
「それでも俺と一緒に来るんだろう、サティ?」
低くよく響く声で囁くのは、薄金色の髪に凛々しいこげ茶色の瞳のピウニー卿。
「当たり前じゃない」
サティは笑って、自分が包まっている掛け布の中にピウニー卿を引き寄せた。それに導かれるように、ピウニー卿もサティの身体を直接腕の中に収め、2人の唇が重なり合う。
****
魔法と剣の国、オリアーブ。
この国は多くの立派な騎士と、賢い魔法使いで支えられた平和で豊かな国だ。
この国には、国王の命を受けて国中を旅するピウニー卿という騎士が居る。そして、その隣には、グリーンの瞳の女魔法使いがいるという。
ただ、時折、その女魔法使いが見当たらないことがある。そんなときは、ピウニー卿の腕で小さなセピア色の毛皮の猫が、喉を鳴らしている。
また、時折、その女魔法使いが1人でいることがある。そんなときは、金色の毛皮のネズミが女魔法使いの肩の上で、髭をぴくぴく揺らしているのだ。
これはオリアーブ王国の竜剣の騎士ピウニー卿の物語。
この物語を読んだすべての旅人よ。
<エルクオ・オ・イェーシェ・アニェサワイス・ニャーラ!>
(波乱に満ちた幸福な人生を送らんことを!)