それなり女と魔法使いの眼鏡

001.ジーノのバカーーー!!

夢を見る。

男の手がゆっくり女の肌を撫で、胸を持ち上げるようにやわやわと揉まれる。持ち上がったそのふくらみに男の唇が触れ、ちゅ……と吸い付く。吸い付いたまま、離れない。男の口の中で舌がうずうずと動き、敏感な部分を弾かれる。

荒く、甘い吐息が交じり合う。見上げると、うっとりと自分を見つめる鋼のような灰色の瞳。節くれだった指が頬を包み、肌をくすぐるようにその指先が動く。

男の腰が大きく動き、女の身体に打ちつけられた。とん……と女の身体が動いて、胸も髪も揺れる。男が愛しげに跳ねる女の身体を抱き締めた。は……と口を開き息を付く女の耳元に、男が何かをささやく。

『……ユイナ、 ……』

『ジーノ……?』

女がそれに答えると、動いた唇がまた塞がれる。

****

結菜ゆいな、最近色っぽくなった?」

今日は友人の沙也加がセッティングした、合コンの日だ。同じ会社の沙也加と連れ立って定時に上がり、目的地のダイニングバーへと移動する。その途中で、綺麗な口元をさらに綺麗に上げて、沙也加が結菜に笑いかけた。

悪戯っぽい瞳は同性の結菜から見ても愛らしく、こんなに女らしい容貌なのに性格がさばさばしているところが付き合いやすい。

「やっぱり私のあげた『アレ』の効果?」

「……ちょっとからかわないでよ……」

「からかってなんかないじゃない。もう。ねえ、使ってみたの?」

結菜の顔が、かあ……と朱に染まる。その様子を見て、きゃっきゃと沙也加が楽しげに笑う。

「あ、やっぱり使ったんだ? どうだった?」

「もう、ほんっとからかうのやめて!」

「なによう。折角私からのプレゼントだったのに!」

楽しそうな沙也加の声に困った顔をしながら、結菜はため息を吐いた。

沙也加が言っているのは、1ヶ月ほど前に結菜にあげると持ってきた「もの」のことだ。3年彼氏のいない結菜のために持ってきたそれは、端的に言うと「大人の玩具」というやつである。沙也加は、それを使って自分の身体を開発し、色っぽくなって男を捕まえろ、という類のことをのたまった。

結果的から言うと、結菜はそれを使うことになった。

ただし、とある男に捕まって無理やり試されたのだ。

あの時のことを思い出すと、いっそあれは夢だったのではないかと結菜は思う。というよりも、夢としかいいようのない現実離れした出来事だったからだ。

異世界トリップ……という訳の分からない事象が、この世の中にはあるらしい。
言葉の通り、異世界……自分達の住んでいるこの世界とは全く別の世界に行くこと。昔から物語や寓話のネタとして使われている事象だ。

よもやそれが自分の身に起こるとは思わなかった。

それを持った結菜は、まさにその『異世界トリップ』を果たし、道具を喚びだした魔法使いの寝台の上に落ちた。国王のために道具を開発したいという戯言を言うその魔法使いは、あまつさえ道具の効果を試したいと結菜を身体ごと説得?し、結菜が持っていた道具を散々結菜に試したのだ。

一番情けないのは、身体をがっつり溶かされてしまった結菜が、最終的にその魔法使いに最後までして欲しいと強請ってしまったことだ。あの時はほんとにどうかしていたと思う。しかも、今まで経験したことのないほど甘い時間だった。相手は自分に興味があるのだかないのだか分からないほど、無表情のインテリ眼鏡だったのに。

もう戻れないのだろうかと思っていたが、案外とあっさり帰してくれた。そのあっさり具合に、やっぱりこの魔法使いは自分に興味はないのか、とつまらないことを考える。初めて会った男だし、男にとって大切なのは道具の使い方で、結菜の相手をしたのは、据え膳食わぬはなんとやら……だったのだろうかと思うと、なんとなく面白くなかった。無事に帰ったのはよかったが、気持ちはもやもやとしているし、何よりも、もうあの魔法使いには会えないのか、などと考えてしまうこと自体、なんだか面白くない。

……しかも、そうした幻みたいな邂逅だったからか、あの夜のことをたまに夢に見るのだ。魔法使いの少し硬い灰色の髪、灰色の瞳、自分に触れる指、自分を愛でる唇。……これではただの欲求不満な女ではないか。腹立たしいことこの上ないし、しかも、忘れることすら出来ない。

物思いに耽っていると、沙也加が結菜の顔を覗き込んで問いかけた。

「ねえ、あの道具、まだあるの?」

「ん、なくしちゃった」

「ええー、ひどい。折角あげたのに」

「だって……」

例の道具は向こうの世界に置いてきてしまった。今頃あの魔法使いが熱心に研究して、国王夫妻とやらに献上しているころだろう。うまくいけばいいのだけど。

……いやいやいや、別にうまくいけばいいとかどうでもいいし。

結菜は眉をしかめた。

「あ、もしかして男のところに置いてきたとか?」

「え!? は?、違うわよ!」

「なに、図星?」

再び沙也加が、あは、と笑う。

「じゃ、今日の合コン大丈夫だったの? 彼氏、怒らない?」

「彼氏じゃないってば!」

「ってことは、男のところにおいてきたのは間違いないのかー」

「……」

むつ……と黙り込んだ結菜を、可愛い生き物を見るような眼で見て、沙也加は楽しげに首をかしげた。

分かりやすい。

つまり、道具は男のところにおいてきた。けどその男は恋人未満ということか。けれどあの道具を一緒に使うほどなのなら、身体の関係はあるらしい。めずらしいことだ。自分のことをそれなり女と評価している結菜が、恋人になる前に男に身体を許すなんて。

それなり女、などと結菜は自分のことを言うが、なんでもそれなりにこなす結菜のことを沙也加はとても気に入っている。大切な友達だ。料理だって仕事だってそれなり……ってことは、それだけ両立してこなすように努力しているということだと沙也加は思う。顔だって可愛い。唯一の自慢だと結菜が笑う黒い髪はとろんと柔らかくて、女の沙也加が触ってもうっとりするほどの手触りだ。

ただし、男に対してもそれなりのところがいただけない。イマイチ踏み込まないというか、本気にならないのだ。本人はそんなことないと言うが、沙也加から見ると結菜は合コンでも紹介でも、男に対しても深く立ち入ろうとしない。だから、男性と付き合うまでに至らないのである。もったいないことだ。

その結菜がここ最近急に色っぽくなった。沙也加の誘導尋問通り、身体を許した恋人未満の男がいるに違いない。

「じゃあ、今日は合コンは早々に引き上げようか」

「……あのね。沙也加のいうような男の人はいないから!」

「じゃあ、最後までいる?」

「……いない。一次会で帰りたい気分」

「了解」

くすくすと笑ってそれ以上は追求せずに沙也加は頷いた。やっぱり結菜はかわいい。

****

合コンは……というと、まあそれなりだった。向こうもそう思っているのだろう。異性混合でお酒を飲み、美味しいご飯を食べて、適度なおしゃべりをする合コンというノリは嫌いではない。……と言ったら、沙也加辺りから「それ、ただの飲み会」と言われるが、結菜からすれば合コンはただの飲み会だ。

気の合った異性、もしくは同性と連絡先を交換することはあっても、ここに何かを求めて……ということはない。そんな気分で毎回参加しているからか、それなりに連絡先を交換するだけして、二次会でも適当に飲んで、お持ち帰りされることなどは無い。それでも上下そろいの可愛い下着を身に着けてしまうあたりは女のさがか。

ただし、今回は微妙に男性陣のノリが異なったようだ。

「結菜ちゃんだっけ? きれいな髪だね。いまどき黒っていうのも珍しい」

「そうですか? ……あー、染めるの苦手で」

隣の男の子にさっきから盛んに話しかけられている。最初に隣に来た人ではなく、いつのまにか席を交代したようだ。

髪が自慢なのだから褒められるのは嬉しいが、いざ褒められるとそれはそれでどう受け答えすればいいのか分からない。結菜はちょっと天邪鬼でもあった。あんまりよろしくない態度だとは思いつつも、その気になれないのだから仕方が無い。「ありがとー、めっちゃ手入れ気ぃ使っててー」とか言うのも面倒だし、「えー、でも何にもしてないんですよー」というのも嘘である。適当に受け流していると、コース料理のデザートがやってくる様子を見せ、一次会もそろそろ終盤のようだ。

結菜はお手洗いへと席を立った。

軽く化粧を直してグロスを付け直す。二次会に行くわけではないが、鏡を見て身なりを調えるくらいのたしなみは持ち合わせている。かんざし一本でハーフアップにしている髪の形を確認して、降ろしている分の髪を少し揃えて外に出た。

「結菜ちゃん」

「あ」

さっき隣で話しかけてきた男の人だった。名前を覚えていない。誰だっけ。……などと問えるわけもなく、曖昧に「あれー」と言いながら首を傾げると、その人がにっこりと親しげに話しかけてきた。笑顔は優しそうだがちょっとだけあけすけな感じがして、結菜は距離感の分からないこうした表情が苦手だ。

「出てきたところ?」

「あ、うん」

「そっか。髪、かわいいね」

「ありがと」

「もう席戻る?」

「戻る戻る。……デザート来てるよね? 戻らない?」

やはり当たり障りの無い会話で、その人の前を通り過ぎようとしたときに、不意に二の腕をつかまれ、そのまま壁に押し付けられた。どうやら洗面所に引っ張り込まれたようだ。

「結菜ちゃん……」

「は、はあ!?」

「ねえ、一次会が終わったら2人で抜けない?」

「え?……いやいや、もう帰ろうかなーって」

「うそ。そんな色っぽい顔して。……なあ、マジで……」

「ちょ、ちょっと、離し……」

男の子の声が急に低くなって、吸い寄せられるように唇が近付く。

意味が分からない。沙也加といい、この男といい、一体今日はなんなんだ。厄日か。色っぽい色っぽいというが、そもそも色っぽい出来事があったのは1ヶ月前だ。1ヶ月もあったら色っぽさは抜けているはずだろうに、何なんだ。夢か、夢で見たからか! ちくしょう、あのインテリ眼鏡め……!

完全に八つ当たりの毒を心の中で吐きながら、結菜は懸命に男の身体を押し返す。

しかし抵抗もむなしく、頬に柔らかいものが当たった。どうやら男の唇が結菜の頬に吸い付いたらしい。ぞわぞわぞわ……と背筋に戦慄が走り、これまでにない悪寒に襲われる。なんだこれ、まだあのインテリ眼鏡に襲われたときのほうがマシだったぞ、……って、だからなんでここでインテリ眼鏡のことが思い浮かぶんだ。

「こんなとこまで思い浮かんでくるんじゃないわよジーノのバカーーー!!」

これまでにない怪力で結菜は男の身体を跳ね飛ばし、そのまま合コン会場には戻らずに店から出て行ってしまった。

****

「はあ……もう、厄日すぎる」

店を出てすぐにタクシーを捉まえて乗り込み、なんとかマンションの自分の部屋まで戻ってきた結菜は、這うようにキッチンへ向かって冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、一口だけ口に含んだ。冷たくて心地よい柔らかな味が喉にしみこむ。そのまま洗面所で化粧を落とした。あの男にキスされたところが気持ち悪かったのだ。早く洗い流したい。

化粧を落として部屋に戻り、携帯の端末を見ると、沙也加から「ごめんね」メールが入っていた。合コンのお金は払っていたのが幸いした。タクシーの中で沙也加に事情を説明して、先に帰る、ごめん……とメールをしておいたのだ。いくらなんでもそのまま出て行くのはセッティングしてくれた沙也加に悪いと思ったが、男に触られたことが思いのほかショックだった。

「はあ……もう。最悪」

結菜は飲みかけた水をテーブルに置くと、シャワーでも浴びようと服を脱いだ。いささか上品ではない格好ではあるが、1人暮らしのワンルームだ。バスルームはすぐそこだし、彼氏もいないし気楽なものである。下着だけの姿になって、ブラシを掛けておく必要のある服はハンガーに掛けて吊ると、スツールの上に置いてあるチカリと光るものが眼に入った。

……金属フレームの眼鏡である。

他ならぬ、異世界に落ちたときに出会った魔法使いジーノの持ち物だ。あちらの世界からこっちに戻ってきたとき、なぜか手の中にあった。こちらの世界に戻る時にジーノは結菜に口付けたのだが、その隙に手に握らせたらしい。そのときの瞬間を思い出して、結菜は、む……と顔をしかめる。

あれは別れのキス、とかそういうのではないのだ。ただ「私の魔力をあなたに移す必要がありますから」……と言って、口付けて、唇が離れる音が聞こえたか聞こえないか……くらいのタイミングで、結菜は部屋の中にいた。もちろん自分の部屋である。

色気もへったくれもない。

抱き合ったときはかなり熱烈で甘い時間を過ごしたと思ったのだが、別れる時は嘘のように淡々としていた。やっぱり据え膳か……と思うと妙に悔しく、思い出すたびにそういう結論に至ることがやっぱり腹が立つ。これではまるで、ジーノに一目惚れしてしまったみたいではないか。

結菜はそっと眼鏡を手に取った。

こちらの世界と造作はほぼ変わらない。ただ、素材は金属に見えるが随分と軽く、硝子は触れても指紋の1つも付かない不思議な風合いをしていた。フレームの内側には結菜には読めない文字がびっしりと刻まれている。それを見て、最初はもしかして触ったらあっちの世界にもう一度連れて行かれるのではないかとびくびくしたものだが、どうやらそういうわけでもない。

「今頃何してんだろ。ジーノ。……もう会えないのかしら、あの憎たらしい無表情なインテリ眼鏡……」

刻まれた文字をぼんやり眺めながら、ぽつり……とつぶやいた瞬間。とくん……と、その文字がオレンジ色にきらめいた。

「え」

そして覚えのある感触。しかし、下へ下へと引っ張られるのは道具ではなく自分自身だ。いつかと同じように、結菜はずるりと白い世界へと落ちていった。