それなり女と魔法使いの眼鏡

眼鏡

「キス22箇所」の「胸:所有」の話と時系列的に不自然さがあるかもしれませんが、ご了承ください。


肌触りのよい上掛とシーツ。後ろから自分を抱いている腕と、耳元をくすぐる穏やかな吐息。背中に触れている男の胸。しっとりとした独特の空気と、二度寝のまどろみ。

そんな朝寝坊特有の幸せな心地に包まれて、結菜は重い瞼を持ち上げる。

いい匂い。あったかい男の人の匂いがする。自分の部屋とは全然違う。明るさも違う。いつもだったら薄い瞼の向こうに朝日が差し込む窓が見えるはずなのに、光は上の方から差し込んでいるようだ。

「……ぅ……ん……」

どこだろ。ここ。

でも不思議と不安は感じない。むしろ安心する。……それは多分、自分をしっかりと抱きとめている腕を感じているからだ。

「ジーノ……?」

自分がどこにいるのか認識できないくせに、自分を抱いている腕の持ち主は認識できる。なぜか、するんと喉から出てきた男の名前。それに呼応するように、抱いている腕が動いて腰から胸へと位置が変わった。

「ユイナ」

男の手が結菜の胸を包み込んで、柔らかな身体をまさぐり始める。その覚えのある感触に、徐々に結菜の意識が浮上する。……このいやらしい手。淡々とした口調。やたら耳を咥えてくる唇。後ろからが好きな身体。2人の身体が沈みこむ寝台。

「ジーノ、ここど、……こ」

「私の部屋ですよ、ユイナ」

そうでした。

相変わらずあっさりと答えたジーノの声に、ガバッ!……と、結菜が身体を起こす。その拍子にジーノの手が結菜の胸から外れて、腰に回される形になった。ヒップにちゅ……と口付けされる。

「って、ちょーーーっと、どこ触ってるのジーノ!」

「ユイナ、何をいまさら」

後ろでジーノが身体を起こし、結菜を抱き寄せた。そのままサイドテーブルに置いてある眼鏡に手を伸ばして、後ろでそれを掛けている気配がする。それを感じながら、結菜はきょろきょろと辺りを見渡した。馴染みが無いけど覚えのある部屋。馴染みが無いけど覚えのある身体。

「あ……そっか」

そうだった。結菜は今、ジーノの部屋に居るのだった。沙也加と参加した合コンで変な男(失礼)に絡まれて不愉快になって途中で帰ってしまって、……そしてジーノの部屋に召喚されて、それから……その……。結菜はジーノと交わした行為を思い出して盛大に赤面した。寝起きの身体が完全に覚醒して、昨晩のこと、自分の言ったこと、交わした約束、一緒にお風呂に入ったことまで、何もかもを思いだす。

「ユイナ?」

黙ってしまった結菜を覗きこむように、後ろからジーノが頬に口付けてきた。

「おはようございます、ユイナ、よく眠れましたか?」

「え、あ、う、うん」

眠れたのは眠れた。かなりよく眠れた。だが、それ以上に気恥ずかしさが込み上げる。これではまるで、付き合い始めた彼氏と初めてセックスした後の朝みたいな、心地よい気恥ずかしさだ。……とここまで思って、状況的にはそのものみたいではないかとさらに赤面する。

次に何の言葉を選ぶか迷っていると、ジーノが耳元に唇を付けてきた。「ちょっと、ジーノ!」……と払うと大人しく引き下がったが、相変わらず抱きしめている腕は離れない。

「……お、起きないとダメな時間?」

「いいえ。まだ寝ていたいならこのままでもかまいませんよ」

「で、も、ジーノ、仕事とか、大丈夫なの?」

「出仕は2日後にすると、連絡しておりますから大丈夫です」

「2日後?」

「ユイナは明日の夜まで私のものです」

「あ」

……そうだった。ここに来たのが金曜日の夜。帰るギリギリのラインは日曜日の夜。……だから。それまで一緒にいてくれる、ということだろう。そう考えて甘い気分になって、戸惑った気持ちを隠すようにわざと別の話題を捜す。……ふと気が付くと、この部屋は通りに面しているのだろうか、雑踏の気配がした。

ここは異世界だが、異世界だからといってジーノしか存在しない……というわけでは当然無いだろう。だが、こちらの世界の住人はジーノしか見た事がない結菜には、そんな当たり前の事がとても新鮮に思えた。

「すぐそこ、通り?」

「ああ」

結菜が身じろぎをして壁に頭を向けた。ジーノは今は下ろしている長い灰色の髪をけだるげにかき上げると、結菜の身体を自分に向かせて頬に手を滑らせ、体温を確認するように顔を寄せた。

「街中の部屋を借りているので多少煩いですね。……郊外の一軒家がいいなら、用意しますよ。街の音が煩ければ防音を……」

「いや、いい。そうじゃなくて。……その、」

「ユイナ?」

「外、普通に街があるんだなって、思って」

変なことを言ってはいないだろうかと言葉を選ぶ結菜の様子に、相変わらず無表情のジーノだったが、その手つきだけは優しく結菜の髪を撫でた。

「外出してみますか?」

「え?」

外出……と聞いて、少しばかり気持ちが跳ねた。

人がいれば街もある。どうして考え付かなかったのだろう。異世界に召喚されている……という事実は今でも到底信じられない出来事だが、ひっくり返せば今の状況、異世界とやらを見て回ることが出来る……ということなのだろうか。

こっちの世界のジーノが居てくれるのならば生活様式の違いは教えてくれるだろうし、ジーノの行動を見ている限り、結菜の世界とこちらの世界で天地が異なるほどの違いは無さそうだ。そう考えると、むくむくと好奇心が沸く。

「外出、外? 見てみたい」

「分かりました。……では、仕度をせねばなりませんね」

「うん。仕度。……仕度?」

仕度……と言われて結菜は、はたと自分の格好を見下ろした。確か自分は一番お気に入りの下着でジーノの寝台に落ちてきたはずだ。ちらりと枕元に視線を向けると、寝る前にジーノがまじまじと観察していたお気に入りの下着がワンセット転がっている。そして今は見事に全裸だった。パジャマすら着ていない。

「ふおおおお!」

「ユイナ、どうしました」

「わ、私、着替え持ってないし!」

「ああ、そんなことなら私が用意」

「そ、それに、それに、ダメよ、ジーノ、ダメ!」

「ダメ? 何がですか?」

そうだ、ダメだ。確かに着る服は何とかなるかもしれない。ジーノの服を貸してもらうとか、そういうことも可能だろうけれど、……だが、決定的にダメなことが1つあるではないか。ダメよダメと言いながらきょろきょろしている結菜の背中を、ジーノがなだめるように撫でた。

「どうしたのですかユイナ。何がダメだと?」

ジーノが結菜の顎をつまんで、くい……と上を向かせる。自分を見下ろす無表情をじい……と見つめて、突然、はっとした。

「ジーノ! 眼鏡外して!」

「……?」

さすがのジーノもわずかに怪訝そうな表情をして、眼鏡を外す。剥き出しの灰色の瞳がわずかに細められた。その瞳とさらに視線が絡まってジーノが眉根を寄せる。……その視線から逃れるように結菜がうつむき、ジーノの首筋に貼り付いて顔を隠した。

突然ダメだの眼鏡を外せだの、挙動不審な結菜を不思議に思いながら、だが相変わらず無機質な口調で問いかける。そのような口調とは裏腹に、すがり付いてきた頭を抱える手は優しい。

「ユイナ? どうしたのです。何か心配ごとですか?」

「そ、外に行くの、今日は無理」

「……貴女が嫌ならば無理強いはしませんよ。ですが、なぜ?」

「だって……」

今は、仕方が無い。ジーノに見られるのは仕方が無い。それにとりあえず昨日の夜は薄暗かったし、お風呂に入ったときは眼鏡を外していたし、それほどはっきりとは見られていないはず。

「ユイナ」

ジーノが結菜の顔を覗き込む。その視線から逃れるように、結菜は顔を背けたが、そうするとますますジーノの抱く腕が強まる。

「ユイナ、一体急にどうしたというのですか。顔を見せてください」

「や、やだ」

「どうして?」

「だって……スッピンだし」

「すっぴん?」

「え、えっと、お化粧してないってこと」

………………………………。

沈黙。

ジーノが自分を見下ろしている気配。

「ジーノ?」

そっと結菜がジーノを見上げると、やっぱり自分をまじまじと見下ろしている。やがて、真顔でこう述べた。

「それと私の眼鏡とどう関係が?」

「だ、だって……」

眼鏡を掛けているとよく見えるではないか。朝の明るい中で、化粧をしていない顔をまじまじと見られるのはいたたまれない。同じような理由で、化粧をしていないまま外に出かけるのも……ましてや、ちょっと1人でコンビニに……というならまだしも、ジーノと一緒に出かけるときにノーメイクというのは、女としてどうかと思うのだ。

どうにかこうにか、そうした理由を述べると、ジーノがふむ……とため息を吐いた。

「こんびに?」

「え、そこ?」

ジーノが少し結菜から身体を離し、少し首をかしげて人差し指の裏で頬に触れた。わずかに口角を上げる。

「私は貴女の今の顔で、十分可愛らしいと思いますが」

結菜の顔が熱くなる。いちいちこういう反応をしてしまう自分に戸惑って、結菜は思わず首を振った。

「いやいやいやいや。でもジーノ、だって、それとこれとはちょっと違うの」

「何がですか。最初に会ったときも、共に浴室を使って化粧を落としていたではありませんか」

「あ、いや、それは……だって化粧したまま寝るのよくないし……」

「その時、私ははっきりと貴女の素顔を見ましたが、今とそれほど造作は変わりあるように見えません。むしろ、今の方が肌をそのまま堪能できて」

「ちょっと、分かった、分かったからそれ以上言わないでもう!!」

結菜はジーノの両目を塞いだ。そうした結菜の様子にも動じず、相変わらずジーノは冷静だ。両目を塞がれたまま、結菜の身体を探り当てる。

「ユイナ、前が見えません」

「見せてないの」

「なぜ」

「急に恥ずかしくなった」

「本当に、何をいまさら言い出すのかと」

本日2回目の「何を、いまさら」を言うと、ジーノは両手で結菜の手を剥がした。瞳を開けると、困ったような顔をした結菜が視界に入る。ジーノは動かない表情で結菜に顔を近づけ、その瞼の横に唇を付けた。きゅっと目をつぶった結菜の瞳の横で、小さな口付けの音を響かせて顔を離す。

「ユイナ、私が見るのはかまいませんか?」

「……うん」

だってもうすでに見られてるし。……それに沙也加も言っていた。「彼氏にすっぴん見せられないような化粧はすんな」……って。彼氏って……。……すっぴんどうのこうのよりも、そっちの方が恥ずかしくなってきた。目の前の人をお付き合いしている自分の恋人……などと認識してしまうと、いきなり心臓が高鳴り始め、特別な関係を意識してしまうではないか。

「……しかし、私以外の人に見られるのは嫌だ……と?」

「ジーノだけに見られるのと、ジーノと一緒にいるところを見られるのとは違うの!」

ジーノの言葉を奇妙に意識してしまって、つい声が荒ぶる。しまった……と思って、ジーノの顔を伺うが、ジーノは相変わらず表情に変化が無い。……否、僅かに灰色の瞳を見開いていた。何度かまばたきをして、すう……と瞳が細くなる。すなわち、獲物を狙う男の瞳だ。

「つまり、貴女の素顔は私だけが見られる……と」

「え、あ、いや、なんかそういうのともちょっとちが……」

「ユイナ……」

ジーノがぎゅう……と結菜を抱き寄せた。今まで落ち着いていた吐息が熱くなり、肌に乗せている手が不埒な動きになる。

「そういうことならば、ユイナ、今日は家にずっといましょうか」

「え、あの」

「次来る時までに化粧のことは何とかしておきます。……ユイナ……」

ねっとりとしたジーノの声が結菜の耳朶に入り込む。ジーノには素顔を見られてもいいだの、そのくせ一緒にいる時に別の人に素顔を見られるのはいやだの……なんて可愛い女だろうか。ジーノは浮き立つ自分の心を抑えきれずに、再び結菜に覆いかぶさる。今日は一日外に出ないというのならば、好きなだけ寝台にいればいいのだ。用意していた結菜用の服を合わせて、それを楽しむのもいいだろう。

ジーノは何か言おうとした結菜の唇を塞いで、柔らかなその身体を堪能し始めた。