結菜がジーノに手を預けて席を立ち、腰に手を回されて身体を支えられていると、またも奇妙な声が聞こえた。ジーノがため息を吐いて眼鏡を直す。 やはりあの声の正体……というか金髪の男の人に心当たりがあるんだ……と思って結菜がジーノを覗き込むと、腰に手が回ったまま歩くように促された。ただ店の出口ではな く、あの金髪の男が座っているテーブルに向かう。
金髪男のテーブルを通り過ぎるとき、ジーノがふっと立ち止まった。金髪男は栗色の髪の愛らしい人を連れていて、その愛らしい人は「あら?」とジーノに向かって微笑みかける。もちろんジーノは笑みを返すことなく淡々と礼を取り、金髪男に視線を戻した。
「……奇遇ですね、クルウ」
「お、おおう、ジーノ。お前もこんなところに食べに来るんだな?」
「ええ。あなたに教えていただいたおかげで、大層よろこばれました」
「お、おしえ……っ。べ、べつに俺は知ってたわけじゃなくて嫁がどうしてもこの店に来たいって……」
「そうでしょう、ユイナ」
「おい、ジーノ聞いて……」
あたふたして顔を赤くしているクルウに結菜が首をかしげていると、自分に話題が振られたようだ。結菜は自分を凝視している金髪男とその連れの女性に、ちょこんと頭を下げる。会話の内容から察するに、このお店の情報は金髪男が教えてくれたものらしい。
「はい。とても美味しかったです。……あの……」
「……ユイナ、こちらはクルレウティステイカルス・アーニャスいう方と、その奥方です」
「初めまして。ユイナといいます。えっと……クル」
「クルウでいいですよ、ユイナ」
「初めまして、クルウさん」
「あ、ああ」
クルウと女性の方にもにっこり笑顔を見せて、もう一度頭を下げる。クルウのほうは何故か慌てて居住まいを正していて、女性のほうはゆったりと微笑んだ。女性の方が「ルミリューラフィアーナ……ルミイよ」と名乗ってくれる。なんだかよく分からないが、クルウはジーノと親しい人なのだろう。仕事関係なのかもしれない。
「それでは、失礼します」
わざわざ声を掛けたのにそれ以上の会話をすることなく、むしろクルウとルミイを置いて立ち去ろうとするジーノに、結菜が目を瞬かせた。
「もう行ってしまうの?」
「特に用は無いですから。さあ、行きましょう。ユイナ」
「……あ、うん。クルウさん、ルミイさん、失礼します」
くすくすと笑う表情の愛らしいクルウの妻は、勝手知ったるように頷いて結菜に手を振る。クルウは「おいちょっとまて」とか何とか言って席を立とうとしたが、妻のルミイに窘められていた。どちらもなんだか可愛らしい人だなあと思いながら、結菜はジーノに引っ張られるようにお勘定を済ませ、持ち帰りのケーキを受け取って店を出た。
「……ねえ、ジーノ、あんなふうにさっさと行ってしまって構わないの?」
「構いませんよ。あちらもこちらに接触するのは予想外だったようですし」
「え、どういう意味?」
「ユイナは気にしなくてもよいのです」
そう言ってふわりと肩を抱き寄せられた。
「それよりも早く帰って、残りを食べましょう」
「うん」
早く帰って残りを……などと。ジーノも案外甘党なのかと思って結菜は頷いた。初めての異世界で外出……としては、とても上出来のような気がする。 ケーキは美味しいし、町の雑踏やジーノ以外のその他大勢に出会うと、ここが確かに人の生きている世界なのだと実感できる。それはとても新鮮で、とても大きくて、不安なような夢のような、そんな思いに駆られた。
ぎゅ……とジーノの服を掴む。
「ユイナ?」
「なんでもない」
ここは異世界で、結菜は完全にアウェイだ。今は隣にジーノがいるからいいけれど、もしこの世界で1人で放り出されたらどうなるのだろう。ふと、そんなことを考える。結菜は気にしなくても構わないというが、こちらでの基盤はジーノに頼りきりだ。不安と安堵の混じった複雑な気分になってジーノの服を掴むと、掴んだ結菜の手をジーノが取った。
手をつながれて覗き込んだジーノの無表情はいつもの硬質なもので、眼鏡を掛けているからよくよく見つめなければ瞳の動きは分からない。しかし、こうして触れられる雰囲気はやはり柔らかいし、とても心地がよかった。
「帰りま……」
「おい、ジーノ!!」
さて帰ろうかと促されると、お店の入り口から大きな声が聞こえた。振り向くと、ぜーはーぜーはーと息をする先ほどの金髪男……ではない、クルウが居た。ジーノが、ふ……とため息を吐く。めずらしいことに、ジーノの機嫌は一気に悪くなったようだ。
「なんですか、クルウ」
「いや、なんですか……じゃなくてだな」
言いながら、クルウの目線が下に下りて結菜とジーノの繋がれた手元に注がれる。その視線に気付いた結菜が慌てたが、ジーノがきつく掴んでいるため離せなかった。
「お、おう。いや、その、邪魔したな」
「そうですね」
つまり邪魔。……ジーノはクルウにそう伝えたようだが、クルウは気に留めることなく結菜に視線を移した。
「……これが、ジーノの? 確か、ユイナ嬢」
「ええ。先ほども紹介したでしょう」
「お、おう、そうだったな。ユイナ嬢」
クルウが改めて結菜の前に立ち、背筋を伸ばす。先ほどまで慌てていた雰囲気は鳴りを潜めて、こちらも背を伸ばしたくなるようなきりりとした様子になった。ジーノよりもまだ背が高くて、明らかにがっしりとしている。顔はいかにも男らしい精悍さがにじみ出ていて、笑うと陽気そうで表情が豊かな事が想像できるが、今は真面目な顔だ。
「挨拶が遅れてすまない。リュチアーノ王国騎士団団長のクルレウティステイカルス・アーニャスだ。お初にお目にかかる」
「先ほども名乗りましたが、ユイナ・マツザカです」
「ユイナ? ユイナ……というのが本名なのか?」
結菜の名乗りを聞いたクルウが、きょとんとした顔になった。
「随分地味な名前だな」
このやりとりどこかで聞いた。
****
それにしても、騎士団長……となると、偉い人ではないか。騎士……という結菜には馴染みのない職業の人ではあったが、それをいうとジーノは魔法使いだから馴染みが無いどころの話ではない。ほほう……と好奇心の瞳で見ていると、ジーノが結菜に耳打ちした。
「先ほども言いましたが、この店は彼が教えてくれたのですよ」
「え、そうなんですか?」
こんな男らしい人が、こんな可愛い店を知っているのか……と意外に思って、顔を綻ばせると、なぜかクルウは愕然とした表情になって首を振った。
「な、なななな、何を言っているんだジーノ!」
「本当のことでしょう」
「クルウさん、甘いものお好きなんですか? ここのケーキ本当に美味しくて……」
「ユ、ユイナ嬢!!」
男の人が甘いもの好き……となると、なんだか可愛らしく思う。結菜の世界で言うところのスイーツ男子というわけだ。リュチアーノ王国騎士団の団長さんはスイーツ男子……なるほどなるほど……と頷いていると、当のスイーツ男子ががっしと結菜の肩を掴んだ。
「いいか。……俺が、ここでケラウスのケーキを食べていたのは、別にケラウスの時期にここの白いケーキが一番美味だからとか、そういうことではなくてだな、嫁! 嫁がどうしても食べたいって言うから……」
「え、あ、はい」
必死のその言い訳には、結菜も覚えがある。同僚の男の子がお土産のケーキをお替りしてたので「ケーキ好きなんだ?」って聞くと、顔を赤くして似たようなことを言っていた。隠れスイーツ男子って絶対こういう言い訳するよなーと思う。普通女性にはバレバレで、そういうところも「かわいい」などと評価されるのがオチなのだが。
「あ、でも、ケーキもリュチのタルトも美味しかったですよ」
「だろ! そうだろう!? ……ケラウスも、リュチもこの季節のもので、ここのケーキは特に季節限定の果物を使ったものが美味しいんだ。クリームもこの時期は特に甘いのにさっぱりとしていて……いたっ! 何するんだジーノ!」
ジーノがクルウの額を拳でゴチンと叩いた。叩かれたクルウはジーノに抗議の表情を向ける。
「ユイナに触らないで下さい。驚いているでしょう」
不機嫌な声でそれに答えて、ジーノがぐい……と結菜を引っ張る。それをクルウは呆然と見遣り「やっぱり……」などとつぶやいていた。忙しない人だなあと眺めていると、クルウが再び、はっとした表情になる。
「あ、ああ、すまない。とりあえず、そうやってうちの嫁が言っていたんだ、うん。俺じゃないぞ、嫁だ。嫁が言っていた」
「……はあ」
ジーノの背中から、結菜は曖昧に返事をしていると、ジーノが眼鏡の奥を微妙に半眼にして、僅かに眉根を寄せた。
「今日は非番ですか、クルウ」
「ああ。そうだ。何か?」
「いえ別に。それで、偶然にもこちらでお会いした……と」
「うむ。偶然だ」
「なるほど……」
じぃ……とジーノがクルウを見つめていたが、やがて眼鏡をついと直すといつのまにか離れていた結菜の手を再び取った。
「ま、いいでしょう。いきますよ、ユイナ」
「う、うん」
「では、失礼します、クルウ」
「あ、失礼します、クルウさん」
「おう。ジーノ、また王城でな。ユイナ嬢も、またな」
ぺこんと頭を下げる結菜と、いつもより若干冷ややかなジーノに手を振りながら、クルウはふう……とため息を吐いた。
「本当だったのかよ……」
どう見てもあの女性はジーノの恋人のようだった。ケーキを食べていたときはあの無表情が微かに動いたような気がしたし、結菜に触ったクルウを明らかにけん制していた。それに髪に触れたり肩を抱いたり手をつないだり……あの男のどこにそんな甲斐性があったのだろうか。なぜか自分のほうがどきどきしてしまうではないか。
「……で、誰がここの店に来たいって言ったって?」
「……ルミイ!」
クルウがジーノを見送っていると、背後にクルウの妻ルミイが腕組みをして立っていた。いつもは愛らしい表情から今は笑みを消して、じろりとクルウを見上げている。
「なるほどね」
「な、な、何が……」
「・・・3日前も来たのに、またここに来たいっていうから、おかしいと思ったのよ」
「だから何が……」
「ジーノさんの恋人を見に来たんでしょ?」
「ち、ちがっ、俺は純粋にここのケーキがだな……」
「あら、さっきは、『嫁が食べたいって言うからー』って言ってたじゃない」
「うぐう……」
騎士団長のクルウも妻のルミイには弱い。大きな体躯で……ぐぬぬ……と唸っていたが、やがて観念したようにため息を吐いた。
「……だってよ、あのジーノが女のために、城下で一番オススメの菓子屋を教えてくれ……だぞ? これが見に来ずにはいられるかよ」
「まったくもう……」
ジーノは最近、7日のうち2日休暇を取る……というサイクルで出仕している。そのこと自体に別段問題は無いのだが、先の行動とあいまって非常に気になるではないか。その休みの日に丁度クルウも非番になり、ついつい紹介した店に妻を連れて来てしまったのだ。だから遭遇した半分は本当に偶然である。
それにしても、あの無表情で女に興味のなさげな男の表情筋を緩める女が、本当に実在するのか……と感無量のような、恐ろしいものを見たような、そんな気がする。実際のところ無表情はさほど変わっていなかったのだが、あのほんの僅かの表情の変化は、天変地異も起ころうかという代物だ。
「でも、全然悪いことじゃないじゃない」
「まあ、そうだな……」
「お似合いだったし」
妻の言葉にジーノの隣に居た女のことを思いだす。ユイナ……と言っていたか。こちらではあまり見かけない、黒い髪に黄味がかった肌の色。顔立ちも華やかではなくおとなしめで、どちらかというと可愛らしい部類だった。その割りに、落ち着いた様子だったのが好ましい。2人の距離に違和感は無く、ジーノの表情も普段と変わらないくせに、雰囲気が妙に柔らかかったのは印象的だ。
「しっかし、ホントに女連れとはな……」
「可愛い人だったわね」
「……」
クルウはふむ……と深い青い瞳を細め、ルミイを見下ろして肩を竦めた。
「確かにジーノにはもったいない美人だったが、お前に比べれば……」
「クルウ、私を出汁に使ったことは誤魔化されないわよ?」
「……はい」
リュチアーノ王国騎士団の若き団長は、勇猛果敢で精悍な男。老獪な戦士からも一目置かれ、若い騎士ならば誰もが憧れる男だったがひとつ……いやふたつほど、弱点があった。ひとつは甘い物……大好きである。そしてもうひとつは、もちろん奥方。
クルウが甘い物好きになったのには訳がある。
甘いものが好きだった奥方ルミイ……ルミリューラフィアーナの心を射止めるために、いろいろな情報を集めたのがきっかけだ。当時のクルウは一生懸命城下の甘味を調べて、ルミイへの手土産にした。あちらで流行のお菓子があると聞きつければそれを試し、こちらに新作のお菓子があると聞きつければ早速全種類買ってみる。
それだけではない。ルミイと甘味談義を咲かせるために、せめて美味しいか美味しくないかの感想くらいは言えるようにしようと、あっちこっち食べ比べているうちに、すっかり甘党になってしまったのだ。
もちろん、ルミイを射止めた後は夫婦そろって仲よく甘い物を楽しんでいる。……否、甘い物好きな奥方につきあってクルウは「仕方なく」嗜んでいるのだ。
クルウが甘党である……ということは騎士団員の全員知らないことになっているのだが、ひとつ付け加えておくのならば、そもそも、クルウは今をときめく若き騎士団長なのである。そうした男が美しい奥方を連れてこうした店に出没すれば、結構な確率で非番の若い騎士団員に目撃されるし、クルウがルミイを口説いた時の顛末は騎士団員は誰もが知っている伝説なのである。
知らぬはクルウだけ、……というわけだった。
****
「さっきのクルウさんって人、ジーノのお友達?」
「……友達?」
「うん、違うの?」
手をつながれたまま帰る道すがら、結菜はなんとなくジーノに聞いてみた。異世界で結菜が知っている人は少ない。ジーノ、そしてマアムだけだ。個人名を知ることはなんとなく特別な感じがして、異世界に近づくような気がする。そんなことを考えていると、ジーノは結菜をじっと見つめて、ふむ……と息を吐いた。
「そうですね。くされ縁です」
「くされ縁」
そのような言葉がジーノから出てくるのがおかしくて、結菜は小さく笑った。ということは、きっと友人なのだろう。そうなると、自分はジーノの友達に紹介された……ということになるのだろうか。なんとなく気分がいいものを覚えて笑っていると、ジーノがわずかに首をかしげた。
「どうかしましたか?」
「なんでもない。クルウさんの奥さん、とても美人だったね」
ジーノはケーキの箱を持った手で、く……と眼鏡を直すと、あくまでも真顔で言った。
「……私はユイナのほうが美しいと思いますが」
「……」
結菜は眼を丸くして、思わず周囲を見渡した。全く表情の浮かばない顔で、こんな恥ずかしい台詞を吐くなど予想外である。しかも外で。誰かに聞かれたわけではないのについついきょろきょろしてしまうのは、好意をオープンにされ慣れていない日本人の性分なのか。そうした結菜の様子に、ジーノがつないだ手を外して頭を撫でる。もちろん、清々しいほど無表情だ。
「ユイナは時々、よく分からないところで挙動不審になりますね」
「えっ!?」
ふむ……とジーノは結菜を眺めていたが、再び手を取って歩き始めた。ジーノはただ、自分が思ったことを言っているだけなのだったが、こうした反応をされる。察するに、ささやいたり触れたりするのと同様に、羞恥で反応するようだ。その度にくるりと変わる表情を見ているのは面白い。 そして可愛らしくもあった。
そうした反応を隠すように、慌てて結菜が話題を選ぶ。
「ジーノは甘いもの好きなの?」
「好きですよ。糖分は仕事中の集中力を高めます」
「うわ、色気の無い」
うわーうわーと言いながらも、楽しそうな結菜をジーノは飽くことなく見つめた。きょとんとしたり、顔を綻ばせたり、拗ねたり、笑ったり……。結菜はジーノには表現できないものを持っているが、それを自分に押し付けない。
「ユイナ。また来ますか?」
「うん。季節ごとのお菓子があるんでしょう? 他のも食べてみたいね」
「そうですね。また一緒に来てください」
本人の気付かないところで、ほんの僅かにジーノの口元が綻んだ。季節の巡りが見たければいくらでも見せよう。甘いものが食べたければいくらでも食べればいい。どのような些細なことでも構わない。こちらの世界で少しずつ、結菜が何かを得られれば、それが結菜をつないでいく。
本当は強い力で掴んで、無理やり引っ張ってしまいたい。
……だが今は堪えて、つないだ手をやんわりと撫でるだけに留めた。