「まったく……最近の師匠は人使いの荒い……」
ジーノはぼそりとつぶやきながら眼鏡を外し眉間を揉み解し、再び眼鏡を掛け直した。窓の外はすっかり暗くなってしまっている。
「早く帰らなければ……ユイナ……」
ジーノは、魔法研究棟に研究室を与えられている。王城に仕える魔法使いの仕事は基本的に王家、王国の騎士などが使用する魔具の設計と開発だ。師匠である主席魔法使いと共に、日夜研究に従事していたのだが、ジーノはここ最近直接国王から依頼された極秘の品物の開発のため自宅に引きこもっており、師匠の手伝いがほぼできていなかった。国王からの依頼のためとあらば仕方がないと、自宅での研究を師匠は許可してくれたが、そのために手伝いの手が減ってしまった皺寄せは当然やってくる。ようやく登城するようになったジーノを、師匠は待ってましたとばかりにこき使った。ゆえに、今日は自分ではなく師匠の研究室で仕事を行っていた。
仕事があるのは悪く無い。ジーノは今、7日間の内2日の休暇を取るサイクルで仕事をしているが、そのためならば平時の忙しさなど何の苦にもならない。しかし、当然のことながら師匠は毎度毎度、休暇の前日に仕事を詰め込んでくる。休暇の前に出来る事は全てやれという考え方自体は間違っていないが、この日ばかりはジーノもとっとと仕事を終わらせてとっとと帰りたかった。
なぜならば、この2日間は愛する女と過ごすことのできる貴重な2日間だからだ。
ただし、そうした事情をジーノはまだ師匠に話していない。ユイナの存在自体を隠すつもりは無いが、彼女が異世界出身である……ということについては今はまだ伏せる必要があると考えていた。もしそんなことが知られれば、あの師匠は興味深々にユイナに近付くに違いない。ほんの僅かの時間もユイナとの時間を邪魔されたくないジーノにとって、それは避けたい。
今日は、ユイナを呼ぶ夜だ。
そろそろ国王に依頼の品物を献上しなければならない。試作品の微調整を行って、それに合わせて献上品の調整を行う予定にしていた。試作品の調整には、結菜の意見が多いに役に立つはずだ。
「では、失礼します、師匠」
「おいジーノ」
低い声が聞こえ、ジーノは表情を変えることなく振り向いた。部屋の奥に座すのは師匠のグルレイスシュレデルゲート・ウェーバー……グレイは、リュチアーノの主席魔法使いにしてジーノの師匠である男である。両脇にいくつか配置されている机では、他の弟子が居残り仕事をこなしている。いつもならば手伝ってやってもよいが、今日は特別だ。
師匠のグレイは、見た目は熟年の紳士である。昔は散々浮名を流したらしい名残の甘い顔立ちに、経験値から来る渋味の効いた雰囲気。さらに女子供に優しいとあって、ご婦人らから人気の男だった。彫りの深い瞼の奥の瞳は、黙っていれば鋭く精悍に見えるが、大概黙っていないのでそこだけ子供のようだ。
そうした性質の悪い眼に掴まりつつ、ジーノは淡々と答えた。
「なんでしょうか」
「お前に頼んでいた火属性の結界石設置玉座の設計図はどこだ?」
「師匠が今右手に持っています」
「2極属性の盾用補助強化魔法の試作品は?」
「師匠が今左手で撫でています」
「小型化した天測儀の魔力注入は終わったか?」
「師匠の正面に置いてあるものがそれです」
立て続けに質問を重ねたグレイは、つまらなさそうに唸った。しばし考え込むと、出て行こうとするジーノをしつこく呼び止める。
「まあ待て。紅蓮の術刃の設計図は出来たか?」
「はい」
「水蓮の結界再構築の予定は組んだか?」
「はい」
「騎士団に納品する護符の媒体の手配は滞りないか」
「はい」
「明日は晴れるらしいぞ!」
「はい」
「ようし、早速飲みに行くか!」
「いいえ」
グレイは拗ね顔になった。ただし、中年の拗ね顔である。もちろん、リュチアーノ一の美女の笑顔にも表情が動かないジーノには何の効果も無い。ため息すら吐くことなく、無表情で眼鏡を直した。
「今日の分の仕事は追加も併せて終了しました。これで失礼します」
「お前最近本当につれないが、家に女でもいるのか?」
「はい」
あっさりと無表情で返答したジーノに、会話を聞いていた弟子のウィリーウィリアムウェルナ・ロンバッハが飲みかけていたお茶を噴き出した。
「ウィル、その製図は水分に弱いですから気を付けなさい」
「は、はい、あああああああ」
ジーノは製図を濡らしたウィルをちらりと見たが、特に助けることなく、「それでは」……と一礼して今度こそ部屋の扉を閉めた。部屋には引っ込めるタイミングを失った中年の拗ね顔と、製図を濡らしてあたふたとしている弟子が残る。
「おい」
……グレイは表情を改めてジーノの去った扉をしばし呆気に取られたように見ていたが、部屋をどたばたと動き回っている弟子のウィルを呼ぶ。だが、ウィルは製図を乾かすための魔具を探していて、そんな師匠の視線に気づいていない。
「おい、ウィル!!」
「は、はい! はい!」
グレイの容赦無い声にウィルの動きが止まり、ピシッとその場に直立する。恐る恐るグレイを振り向くと、わざとらしいしかめっ面をしている師匠と眼があった。
「あれはなんだ」
「え?」
「あれは、誰だ」
「じ、ジーノ殿だとおも、思いますが……」
「そんなことは分かっておるわ! なんだあれは。ジーノが女を連れ込んでいるだと? お前、詳しいことを知っているのか?」
「し、知りませんよ、僕だって初耳ですよ!」
だからお茶を噴いたのだ。
ウィルは主席・次席の魔法使いに師事している身だが、ジーノとは異なり官位などは与えられていない末端の魔法使いである。師匠であるグレイは宮廷に在籍している魔法使いの中で、唯一、自身の弟子を研究棟にあげることを許可されているため、官位を持たないウィルでも研究棟で仕事が出来るのである。その師匠グレイと、兄弟子に当たるジーノのことを、ウィルは仔犬のように無心に尊敬していた。
もちろん、ジーノが宮廷でも有名な変人……もとい、無表情な変人であることも知っている。……で、あるからして、師匠がこのように唖然とする理由も見当が付いた。
ウィル自身は弟子入りしてからまだ2年ほどだが、ジーノとグレイ師匠の付き合いは10年にはなるだろう。その師匠が自分の決め顔を忘れて唖然とするのだから、よほどの一大事に違いない。
「ニコリともしないでどうやって女を口説くんだ、特殊性癖か!」
「そんなこと僕に聞かれましても……」
やはり師匠は、ジーノがあの無表情でどうやって恋人を作ったか……ということに興味があるらしい。さらに付け加えるならば、どんな顔で恋人と一緒にいるのか、辺りにも興味があるのだろう。しかし、ウィルがそんなことを知っているはずも無く、勢い込む師匠に若干仰け反りながら首を振った。
国王陛下にもそれと知られる程の無表情・無感情のジーノは特別顔が悪いというわけではない。しかし表情が希薄……というよりも一切無いために根暗な男と思われがちだ。騎士団長のクルウのように奥方がいるわけでもなく、グレイ師匠のように洒落っ気があるわけでもない。着ている魔法使いの長衣は特に流行のものでもなく、雰囲気も溌剌とした風には程遠い。女がいて幸せそうに笑っている様子など、想像が出来ないのである。
「……そんな気配があったか?」
同じことをグレイ師匠も思ったのだろう。怪訝そうにウィルに問う。
ウィルも最近のジーノの様子を思い浮かべてみた。特別に変わったところは無かったように思うが、強いていえば眼鏡が変わったことだろうか。それを指摘してみると、グレイは奇妙な生き物を見るような眼でウィルを見た。
「眼鏡が変わったってお前……」
付き合い始めの恋人の変化を見つける女かお前は。……と訳の分からないツッコミを師匠にもらって「そんなわけないでしょう!」と3回言う。
「だけど、あのジーノさんが身に付ける物を変えるとか、今まで無かったことだと思いませんか?」
「ふむ」
確かに無かったことだなとグレイは顎を撫でた。しばらくの間なにやら思案をしていたが、思い立ったように席を立つ。
「よし、騎士団に行ってくる」
「はい、えっ、師匠、エクスス用の魔法鞍の改良は……」
「あれは急ぎじゃないだろう。気になるならお前やっとけ」
「いや、僕だって残業はいやで……」
「じゃあ、後は頼むな!」
「ちょっと師匠!!」
哀れな弟子の声を後にして、グレイは足早に研究室を出て行く。弟子にはああ言ったが、荷馬の鞍の改良設計は既に終わっている。というわけで、別段ジーノやウィルの手を借りるような仕事はとうの昔に完了しているのだった。最近様子のおかしいジーノを少し引き止めて探ってみただけだ。そして、どうやらこれは本物らしい。
グレイはジーノが弟子入りしたときのことを思い出した。その時から徹底した無表情で、これはまた奇妙な男が弟子入りしてきたと思ったものだ。それまでは休みなど不要……と毎日淡々と仕事をしていて、グレイが無理矢理休暇を取らせなければ毎日でも出仕して、それが苦とも思わない男だったのに、今は7日に2日休むようになった。これもまた女の影響なのだとしたら、本当に入れ込んでいる事になる。
そんなジーノが入れ込む女とは……。
「どんな女なんだ、おい、ジーノ」
ジーノと付き合いの古い騎士団長のクルウなら何か知っているだろうか。それにしても、同じ程度には付き合いが長いと思っている自分に何の相談も無いなど水臭い……と、グレイは少しばかり寂しい気分になった。
「あのジーノが女のために仕事を早く抜けたがるとはなあ」
もっともその仕事はグレイが、通常分より上乗せしたものではあるが。
****
部屋に戻ったジーノは魔法使いの長衣を脱ぐと、自室に設置した召喚陣に手を滑らせた。陣には結菜の名前と呼び寄せる目的が、魔法語で書かれている。
「ユイナ……」
時計を見ると、いつも結菜を呼び寄せている時間を大きく遅れてしまっている。僅かに眉間に皺を寄せて眼鏡の位置を直すと、低い声で召喚の術語を唱えた。
すう……と指で術陣をなぞると、そこにオレンジ色の光が走る。界のつながる気配と開く感覚を感じ、ぼふん……と寝台に何かが落ちてきた音が聞こえた。ただ、いつも聞こえる小さな悲鳴が聞こえない。
「ユイナ?」
怪訝に思って慌てて寝台を振り向くと、そこにはきちんと目的の女が横たわっていた。
しかしいつものようにぽっと頬を染めているわけでもなく、どことなく不安そうにきょろきょろしているわけでもない。
ふ……とジーノの纏う気配が緩む。
ジーノは寝台に近付き、愛しい女の頬を撫でた。
「遅くなってすみません、ユイナ」
結菜は腕に何かしらを抱えてすやすやと眠っていた。ジーノが頬を撫でると、くすぐったそうに身じろぎをする。どうやらかなりよく眠っている様で、その安らかな顔を見ているととても起こす気にはなれない。
「これは……?」
結菜はいつもの結菜だったが、腕に面妖なものを抱えていた。細長いそれは結菜の頭から腰あたりまであるだろうか。どうやら顔・胴体・手足……というパーツに分かれているようだが、何かの生命体ではなく人形のようだ。人形にしては全身同じ奇抜な色の毛で出来ている。子供のものにしては巨大だ。
それをぎゅう……と大事そうに抱き抱えて、眠っている。毛の人形を軽く引っ張ってみたが、結菜が顔をしかめてムッとした表情を見せるので仕方なくそのままにしておいた。上掛をそっと掛けてやる。
ジーノが軽く湯を使って寝る仕度をして戻ってきても、結菜は微動だにしていなかった。よほど気持ちよく眠っているのだろう。ジーノは上掛けをまくって寝台に滑りこみ、結菜を正面から抱き寄せた。
それにしても。
「邪魔ですね」
ジーノと結菜の間に面妖な毛で出来た人形が挟まっている。ジーノは身体を起こして、結菜の抱えている人形の耳らしきところを引っ張ってみた。しかし、結菜は離さない。それどころか「ううん……」と吐息の混じった色めいた声を上げて、すりすりと毛皮に頬を擦り寄せている。
「……人形ごときに邪魔されるとは」
しかし表情を変えることなく冷静に、結菜の巻き付いている腕を外そうと試みたが、引き合っているかのように腕はぴたりと人形に戻ってしまった。引き離されまいと結菜の腕の力が強くなり、今度は「やぁん」とけしからぬ声を出す。
「ユイナ、これは邪魔です。離しなさい」
「ジーノ」
「ユイナ?」
「ジー、ノ……」
何とか人形を結菜から離そうとしていると、結菜がどうやら寝言でジーノの名前を呼んだ。自分の名前ほど破壊力のある寝言があるだろうか。むにゃ……と結菜から唱えられた自分の名前に、ジーノは珍しくため息を吐いた。仕方なく結菜の反対側に回って、背中から抱き寄せる。
顔を下ろすと、ちゅ、と小さな音を立てて首筋に吸い付く。
そのまま結菜の着ている服の肩紐をずらして、剥き出しにした肌に同じ行動をする。「んむぅ」と唸るような声が聞こえて唇を離したが、起きてはいないようだ。
ジーノは結菜の服の中に手を入れて下着の存在を認め、器用にそれを外した。慎重に人形から腕を離させ下着を抜き取る。一度人形から手を離したかと思われた結菜だったが、ジーノが剥ぎ取った下着を寝台の横に置いたスキにまた抱き付いていた。
眉間に力が入り、声が荒くなる。
「どうせ抱き付くならば、私に抱き付きなさいユイナ」
再び毛の人形ごと背中から抱き寄せて、耳元でささやいてみる。しかし結菜からは相変わらず、むふんと吐息が聞こえてくるだけだ。
仕方なくゆっくりと結菜の身体を撫で、自分も眼を閉じる。温かな背中をそっと抱いて胸の膨らみに手を置いて、足を絡めた。自分の胸に伝わる結菜の体温に愛しさを覚え、さらさらとした髪を掻き分けて首筋に自分の唇を置く。
召喚の時間に眠っていた結菜。……自分と同じようにこの時間を待っていてくれたのだろうか。自分がいない間どのような時間を過ごしていたのだろう。寂しいと思ってくれていただろうか。変な男に声を掛けられてはいないだろうか。いっそこのまま腕の中に閉じ込めて、ここから出られないようにしてしまおうか……。
7日間の内に2日間、出来る限り結菜の都合に合わせた日程の逢瀬は、彼女がこちらに来るのが嫌にならぬよう設定したものだ。紳士的と言えば聞こえがいいだろうが、これはあまりにきつく閉じ込めすぎて結菜に逃げられないようにするためだ。もし結菜がこちらに来ないと言ったとしても、ジーノは無理矢理にでも手に入れただろう。
だから結菜がジーノを受け入れてくれて、心から安堵した。
結菜はジーノのことを冷静で無表情な男だと思っているかもしれないが、愛しいと思った時からとても冷静ではいられない。そっと壊れないように包んで、結菜がこの世界のことを想ってくれるように様々なことを教え込む。そうした事は全く苦ではない。苦しいのは離れている間の結菜を、どうにも出来ないことだ。
「ジーノ……」
「ユイナ?」
「……ん」
「ここにいますよ、ユイナ」
結菜の身体の柔らかさと温かさはとても心地がよく、この温もりを抱いて眠る夜が自分には必要なのだとはっきりと感じる。この温かさがいつまでも自分の側にあるのだと、安心できる日はいつ来るのだろう。その日が出来る限り早く来るように、さて何をすればよいか……考えながらジーノもまた眠りに落ちていった。