花火のあった夜、妖怪酒場の皆と別れてから、そして八丈と抱き合ってからの1年はあっという間だった。
最初の1ヶ月は何にも手がつけられないくらい心の中に隙間がぽっかりと空いてしまった。たとえばこれがただ八丈に会えなくなっただけならまだ耐えられたかもしれないが、頻繁に通っていたあの酒場も同時に無くなってしまったことで、喪失感をさらに拠り所のないものにした。
酒場があった雑居ビルに行ってみても、地下に続く階段はどこにも無かったし、非常口には鍵がかかっていて中には入れなかった。他のビルからなんとか屋上を覗こうとしても、ビルとビルの谷間に隠れて死角になっていて見えない。
一夜にして跡形も無くなった酒場の痕跡に、妖怪達は本当に存在したのだろうかと疑いもした。しかしそれならば、八丈とのことも夢だったというのだろうか。身体に残された赤い痕が徐々に薄くなっていくにつれ、水希の不安と心細さはいや増した。
けれど、しばらくたったある日、部屋に置いていた飴が消えていたことがあった。ピンと来た水希は、すぐにあの金色の飴を買って来て、1つだけテーブルの上に置いた。翌日には消えていた。
その翌日、また飴を一つだけテーブルの上に置いて会社に行き、仕事を終えて帰ってきた時、部屋の電気を付けると「キャ!」という小さな声がする。
見るとテーブルの上の飴の包み紙を懸命に剥がそうとしている、小さな妖怪がそこにいた。いつも酒場で水希におしぼりを運んで来てくれていた、あの烏帽子が狩衣を着たような小さな小さな妖怪だ。彼……?は、少しくっついてしまった飴の包み紙を懸命に開けようとして開かなくて、途方に暮れていたらしい。一寸遅れて飛び上がり、水希と目が合ってはまた飛び上がる様子に、思わず笑みがこぼれる。
飴の包み紙を外してテーブルに置くと、小さな烏帽子の妖怪は、そうっと持ち上げて大きく口を開けて放り込んだ。食べ終わるまで眺めていると、飴が無くなった妖怪が、キュキュ、と小さく鳴いて飴のたくさん入った袋を指さした。
「まだ食べるの? だめよ、そんなに食べたら。虫歯になっちゃう」
キュ
妖怪が虫歯になるかどうかなんて知らないが、いたずらにそんな風に言ったら、烏帽子の妖怪は小さく鳴いて消えてしまった。
「また明日おいでよ」
姿の消えたところに向かってそう言うと、水希は飴を袋から一つ取り出して、自分も口の中に放り込んだ。優しい甘さに、心がようやく落ち着きを取り戻す。
妖怪達はいる。夢じゃなかった。貴船や秦野が言っていたではないか。この世界には人ならざるものが多く居て人に化けて生活しているものもいるのだと。彼らは夏の間水希にも気付かれないように人間に化けていて、もしかしたら水希のそばにいるかもしれないのだ。時に、烏帽子の妖怪のように人間には見つからないようにしているのかもしれず、……八丈のように石や何かに閉じ込められているのかもしれないが、確かにそこにいる。
八丈がもし、まだあの雑居ビルの一番上にあるお社にいるのならば、いつまでもぐずぐずしていられない。いつ八丈に鉢合わせしてもいいように背筋を伸ばしたいい女でいなければ。もし妖怪達と電車や街中ですれ違うときがあるならば、もう一度会うのを楽しみにしてもらえるように清々しい気持ちでいなければ。
そう思って、水希は以前と同じような生活のリズムと、以前よりも少し姿勢を正した生活をするようになった。時々烏帽子の妖怪が飴をねだりにやってくる。
この世界に人ならざるものは案外多いのかもしれない。
その証拠に、水希がカフェに入って珈琲を飲む時、座ったテーブルの上をふと見ると、小さな皿の上にお砂糖が乗っていたりする。そしてしばらくすると、いつの間に入ったのか水希のコートのポケットの中から烏帽子の妖怪が出て来て、そのお砂糖をかじったりしているのだ。
路地裏を歩く猫の尻尾が2本に見えたり、なぜかきゅうりを大量に買っているサラリーマンを見かけたり、すごく若い男の子が意外にも老夫婦の経営するお豆腐屋さんと仲がよくて、大量の油揚げを買っているのを知ったりする。それはもしかしたら……とかすかに思う程度の出来事だ。妖怪の存在を信じて居なかった時には気にも留めなかったことだろう。だが、もう水希は妖怪がいることを知っていて、そこかしこの風変わりな気配を捉えることができる。そんな彼らは、普通の人間には見えないはずの烏帽子の妖怪に、ちらりと視線を向けたりする。
あれはきっと妖怪さんなんだ。そう思うときもあったけれど、水希は何食わぬ顔で過ごした。向こうもそうやって過ごしているのだから、水希もそうするのが流儀だろうと思った。妖怪酒場は妖怪達のもの。妖怪の規則も妖怪達のものだ。水希はそれをほんの少し見せてもらっているに過ぎない。
もどかしかったけれど、妖怪の片鱗を見つけるのは楽しくもあった。
季節が三つ過ぎて、肌に暑さを感じるようになる。落ち着きを取り戻していた気持ちが再びそわそわとし始め、例の雑居ビルを覗く回数が増えた。しかしいまだそこに階段や扉は無く、何かの準備が始まっている風にも見えない。
そして六月の最後の休日。
あと二日も経てばいよいよ七月になる。オープンするのは七月からだと聞いていたが、七月のいつになるのだろう。そう考えながら、窓の外を眺める。折角の休日だというのに空は恐ろしく黒く厚い雲で覆われていた。最近は天気が不安定で、各地で予測外な大雨が降ることも多い。連日ニュースで週末は雨だから気を付けろと放送されている。
その日もお天気は急に変わってしまうから傘を忘れないように、空が光ったら落雷に気をつけるようにとテレビのキャスターが散々注意していた。
そして、その予測通り、突然雷を伴う雨が降り始めたのだ。
急に空が暗くなり、遠くから近付いてくるという余裕も無く空が光り、直後に巨木を裂きでもしたかのような長い長い音が鳴り響く。どうやら近くに落ちたようで、雷がそれほど嫌いではない水希も思わず身体をすくませたほどだ。
「今の……近くに落ちたのかな……」
なぜだか不安になって水希は窓を閉めたが、もちろんそれで雷雨が止む訳ではない。雨粒が勢いよく窓を叩く音が鳴り響いていて、そっと窓の外を覗いてみれば、まるで夜のように真っ暗だ。
再び何度か空が光る。
直後、空が光った回数分雷の音が響いた。
あれもまた、どこかに落ちたような音だ。インターネットを開いて周辺のスポット天気予報と落雷予測を見てみると、どうやら雷雲はこの街の周辺だけを覆っている。
雷の音はそれから何度か響き、ようやく何も聞こえなくなった。雨の音も徐々に和らいで、外を見るとさきほどまで暗かった空が嘘のように明るく輝いていた。雲の切れ目から目の覚めるような青が覗き、白い光がシャワーのように降り注いでいて、濃い灰色と明るい青とのコントラストが眩しい。
雨の後の青空って、こんな風に綺麗だったかな。そう思って雲の切れ目を眺めていると、遠くから消防自動車のサイレンが響き始めた。
緊急車両のサイレンは、それが自分に関係無いと分かっていても人の心を不安にさせるように出来ている。先ほど青空を見た時とは全く逆の気持ちに、心臓がドキドキと鼓動を打ち始めた。窓を開け、息をひそめて音の行方を聞いていると、サイレンはほどなくして止まった。
変な胸騒ぎがして部屋を見渡してみたが、今日は烏帽子の妖怪は居ない。居ない日はこれまでにもあったのに、さらに不安が襲いかかる。
いてもたってもいられなくなって、水希は部屋を飛び出した。もちろんそんなことあるはずないと信じている。だからこそ確かめにいかなければ、この不安は消えない。
酒場のあった雑居ビルは、水希の部屋の近くの商店街の裏にある。いつもならば駅に真っ直ぐ向かう人達ばかりなのに、この時は何故か皆きょろきょろと周囲を見渡しざわついている。今の時間は店を閉めているはずの居酒屋の店主も、がらりと店の扉を開けて外に出ていた。
いよいよ人が多くなって来て、目的の雑居ビルがそこに見える。
すでに消火作業の終わったらしい消防自動車が狭い路地裏をゆっくりとやってきて、水希は道路の端に寄った。同じように横に寄っているおじさん2人が、何かしらビルの方を見ながら話している声が聞こえる。
「雷が落ちたんだって?」
「古いビルだったんだろ。コンクリなのに火の手があがったから消防呼んだんだが、屋上に木造の神社さんがあって、焼けちまったんだと」
屋上の木造の神社さんが
焼けちまったんだと
急に周囲の音が無くなった気がした。息をするのも忘れて、気付いた時にはけほりと喉が渇く。徐々に落ち着きを取り戻し始める街の雑踏におじさんたちが解散しようとして、水希は慌てて呼び止めた。
「す、すみません!!」
「ん?」
「あの、ビル……神社が燃えたって……」
「ああ」
そのおじさんと、それからビルの三つ隣の立ち飲み屋の女将さんに聞いた話によると、激しい雷雨があったあの時、古いビルの上に七発の雷が落ちたのだそうだ。周囲のビルにはもっと高いものもあり、近くには避雷針もあったはずなのに、なぜか綺麗に七発が落ちた。誰も住んでいる気配のない鉄筋コンクリートの屋上だから、電線が切れる程度の被害かと思っていたが、見れば火の手があがっていたので誰かが消防自動車を呼んだらしい。しかし鍵が開かず、窓ガラスを割って屋上に行くと床の一部が抜けており、真黒に焼け落ちた小さなお社と、粉々に砕けた白い石の欠片が残っていた。消火活動をするまでもなく、火の手はすでに消えていた。
それを聞いた水希はすぐに雑居ビルに行ったが、割れた窓ガラスには黄色いテープが貼られていて中には入れそうになく、結局何も出来なかった。
とぼとぼと家路につき、部屋の中にへたり込む。それから何時間もそうしていて、部屋が暗くなっても動けなかった。お腹も空かず、眠くもならなかった。
なぜか泣く事も出来なかった。
ずっとこの十ヶ月背筋を伸ばしてがんばってきた。そしてもうすぐ会えるかもしれないと思っていた日に、それを失った。悲しいとも寂しいともつかぬ表現しがたい感情に、心が止まってしまう。
それでも時間は流れていく。
一日経過して水希はようやく自分が生活をしなければならないことに気が付き、のろのろと起き上がった。一日、二日、会社に行って仕事をする時間だけが自分を取り戻せる時間だった。
雑居ビルの前を通る度に、足を止める。七月に入って三日経っても、まだ立ち入り禁止のままだ。
****
明日は休みという平日最後の夜、仕事を終えた水希は最寄りの駅を出ようとして足を止めた。雨が降っている。あの雷雨の日を最後に不安定なゲリラ豪雨は成りを潜めていて、七月に入ってから数日はずっと晴れていた。それでも念のために折り畳み傘を鞄に入れている。傘を出そうと鞄を探りながら、駅から一歩、足を踏み出す。
鞄に気を取られていると、不意に人が横に並んだ。誰だろう、そう思って隣を見ると、逞しい体躯の男が水希に黒いこうもり傘を差し掛けている。
水希は目を見張った。
「その靴で走ったら転ぶぞ」
聞き覚えのある低く枯れた声、鋭いのに穏やかな眼差し。強く引き結ばれた口許が、今は微かに笑っている。袖から出ている腕が触れ合う感触、少し硬い男の腕。
安心できる、温かなこの、傘の中。
「八丈さ……!?」
水希の瞳が涙で決壊する前に、八丈に片方の腕で抱き寄せられる。
「来いよ、酒場に行くんだろ」
「で、もっ……!」
酒場のあったビルは立ち入り禁止だったはず。それにお社は燃えて、八丈だったという石は粉々になってしまったではないか。それなのにどうして八丈がここにいるのだろう。
いろいろな疑問を明かさないまま、八丈が水希の身体を抱き寄せて動き始めた。駅前だけあって周囲に人はまだ多く、ここで泣くのは恥ずかしい。そう思って俯いたら、八丈が少し傘を深く傾けてくれた。
「ふっ……うっ、八丈さん、バカ」
「なんで泣いてんだよ、約束しただろうが」
「だって、ビル……立ち入り禁止、だしっ、無くなっ……お社も……」
「ああ」
すんすんと鼻をすすり始めた水希の肩を、八丈がぽんぽんと優しく叩いた。何かしらの説明は無く、しかし時々なだめるようにそうしながら、路地裏の道を歩いていく。
雑居ビルが合った場所をあっけなく通りすぎて、着いたのは水希の住んでいるアパートだった。
「え、ここ……? 酒場、は」
「ここであってる」
建物に入り傘を畳んだ八丈は、当たり前のように水希の指に自分の指を絡ませる。八丈と一緒に過ごしたのは去年の夏の2ヶ月間。身体を触れ合わせたのはそれよりももっと少ないのに、驚くくらいに八丈の指や手を水希は覚えていた。
水希のアパートは1階が駐車場になっているのだが、その駐車場の端に小さな扉があった。何も書かれていない鉄板で出来た扉は、管理人しか開ける事の出来ないボイラー室かなにかだと思っていたが、八丈が手をかけると簡単に開く。
扉の向こうには階段が地下へと降りていて、その先には見覚えのある茶色い木製の扉があった。そしてこれもまた、見覚えのある毛筆の字で「ゑいぎやうちう」と書かれている。
「うそ、うそぉ……」
「ほら、水希。入れよ」
八丈が背中を押して、水希が一歩前に出る。恐る恐るドアノブに手を伸ばし、金色のそれを捻った。
キィと扉を開くと、目の前には懐かしい光景が広がっている。
「わあ、いらっしゃい水希さん!それに八丈さんも」
当たり前のように狐の顔をした秦野が、お酒を運びながら水希に会釈する。
「おや、八丈、水希さんいらっしゃい」
飴色に輝く一枚板のカウンターの向こうでは、サンタクロースそっくりのお髭の貴船がいつものようにお酒を作っている。
「よう、水希、八丈、遅かったじゃねえか」
そして貴船の前では狸の和尚がもう既に一杯やっていて、ギロチンの絵が描かれたビール瓶を目の前に置いてグラスを持ち上げている。その隣にはずらずらと五匹の狸が並び、全部で六匹の狸が同じようにビールを飲んでいた。
「ど、う、して?」
「どうしてもなにも、七月になったらまた酒場は開店するって言ってたろ」
八丈が低い声で言って、酒場の妖怪達に向けて肩をすくめる。店のレイアウトはほとんど変わっていない。広いテーブル席で付喪神達が遊んでいる様子も同じだ。案内されるまま、狸でいっぱいになったカウンターの空いた席に八丈と共に座る。よいしょよいしょとおしぼりのお皿を運んでくるのは、この一年、ずっと水希と一緒に居てくれた小さな烏帽子の妖怪だ。ことんとおしぼりをおくと、いつものかわうその妖怪と共に、キャッキャとカウンターで鬼ごっこを始めた。
ああ、これ、妖怪達という不思議を懐かしいと思うなんておかしいけれど、懐かしい光景だ。
どうして、なんで……と問いつめたい気持ちが消えて、水希はくったりと気が抜けた。
「もう……お腹空いた」
それを聞いて、酒場のみんながどっと笑う。キャアアアと付喪神達と小さな妖怪達がカウンターをふわふわと横切り、キッチンへと文字通り飛び込んで行く。「てめえら、静かにしろい!!」と白ネズミの料理人さんの声が聞こえて、再びキャアアアと妖怪たちが散り散りになって戻ってくる。やがてじゅうじゅうとソースの焦げる音がし始めた。
「それで、どうしてここにお店を開く事になったの? 八丈さんのお社は焼けちゃったのに、八丈さんはなぜここにいるの?」
水希は八丈に向き直り、何が何でも答えてもらうぞ……と強気の眼差しを向けた。八丈はもちろん、水希の視線を優しく受け止めて、頬に指を触れる。
「焼けたわけじゃあねえよ。あれはな、兄貴達からの神通力だ」
「え……?」
七人いる八丈の兄達は神通力によって人間に化けていたが、妻と共に人間の寿命を全うした後、今は人ならざる者が住む界で妻と共に暮らしているのだそうだ。兄らは八丈の封印を解いてやって、人間に化けられるようにしようとしていたのだが、八丈自身は「人間に化けて人間に混じって生きていくほど今の世の中に面白味が無い」……とそれを断っていたらしい。かといって独り身のままで界にもどるのもつまらず、それで、神通力がいくらか溜まってから人間に化け、今の人間と僅かに交流してはまた石に戻る……という生を繰り返していた。
そして普通の人間の水希を見つけた。
最初はつまらん人間の女の一人としか思っていなかったが、妖怪達を恐がりも珍しがりもせずに普通に接し、日々の移ろいを楽しく見つけて慎ましく笑う水希が気になり始めるのに時間は掛からなかった。
単なる偶然と笑うものもあるかもしれない。
だが、男が女と偶然に出会い、共に美味しい酒を飲み、その酒を美味しく感じ、楽しく話が出来る事のどれだけ大切なことだろう。まるで人間のように、普通に楽しく話すことができるだけのなんでもない女に惚れた。ただそれだけだ。
「ほら、今の若えもんも、楽しく笑って、楽しく過ごしたら、仲良くなる。それで本当に心から楽しく愛しく過ごせるなあって思える女に会えば、当たり前に惚れ……」
「分かった風に言うなうるせえよ、鶴」
「うるせえ、ワシ今いいこと言ってんだろ、鶴って呼ぶな」
いい雰囲気を壊して口を挟み、八丈に怒られたのは狸の和尚だ。名前は「鶴」というらしい。後から聞いて分かった事だが、狸なのに「鶴」というアイデンティティの方向性を見失った名前が嫌いで、狸の姿のときは名乗らないのだそうだ。今日は「日本三大狸の会」のお仲間を引き連れて、開店祝いにやってきたらしい。
ともかく、八丈は水希と夫婦になるのなら人間に化けて過ごすのも悪くないかと思った。八丈は十ヶ月を掛けて蓄積した神通力を使って兄達に封印を解くように祈りを捧げた。八丈の祈りを受けた兄達は、末の弟が妻を娶る祝いに、神通力を合計七人分、八丈に与えたらしい。
「俺らは水と雷を司る。あの雷は兄貴達が俺に神通力を落としたのさ。随分乱暴だったがな」
「本当に。おかげで、あのビルへの立ち入りが禁止になりましてね。持ち主は誰だとか、いろいろと面倒になったので手放して、ちょうどこの物件を見つけたのですよ」
言いながら貴船が水希に焼うどんを出してくれた。水希のアパートの建物も妖怪関係者が手中に収めたらしい。今後は住居に困った妖怪達が人間に化けて入居することも増えるだろうと言っていた。もちろん今住んでいる人間達の平穏はそのまま保障する、とも。
「ま、そういうわけだから、これから俺も人間として暮らして行く事になったんだよ」
「で、でも、でも……」
「安心しろ。仕事とかな、その辺は貴船が妖怪や人外どもの世話する、なんとかってとこの元締めやってんだ。こいつに任せりゃ心配ない」
八丈の言葉に真っ白な髭の奥で、貴船が苦笑する。
「私はこの辺り一帯の元締めに過ぎませんけどね。大ボスは他にいます。……ですが、八丈と水希さんの人としての生活は保障しましょう」
「えと、それだけじゃなくて、その……」
「ん?」
神通力で八丈は人間に「化けている」という。雷の神であり、人ではない。ということは、そもそも根本的に、人間と生の時間が違うのではないだろうか。八丈は貴船よりも長い時間を生きていると言っていた。その大半を石になっていたのだとしても、人との寿命は違うのではないか。
「そいつも心配すんな、兄貴からの神通力が七人分、一人十年として、七十年は持つからな。お前と一緒にいるには充分だろ」
「そ、そうじゃなくて、逆」
「ああ?」
「……七十年経ったら、私おばあちゃんになっちゃう」
それを聞いて、狐の秦野がくすっと笑った。
「水希さん、かわいい」
「え、え?」
むっとした八丈が秦野を睨みつけて、水希の肩を抱き寄せる。睨まれた秦野は「いえ、そんなつもりで言ったんじゃないですよ!」と慌てて首を振った。
「水希、あのな。俺の化け術は完璧よ。一緒にじいさんになって、ばあさんになったお前を連れていってやるさ」
水希という人間の嫁と一緒に年を取り、死んだら水希の魂を抱いて本来の姿に戻る。それが雨と雷を司る、蛇神八丈のやり方だ。蛇はしつこいから、最後まで女の側にいるだろう。絡んで、絡んで、動かなくなるその時まで、絡み付いて離してやりなどしない。
しかし。
「お前、俺と連れ添うことを考えてくれてたのかよ」
「だ。だって……」
ぼそぼそと言う。
「……お前は俺の嫁だって、言ったから……」
「ようし! それならお前らの祝言はワシがあげてやるよ!仏式だ!仏式!珍しいだろ、仏式!祝いの数珠作ってやるから!なあ!!」
「だから、うるせえよ鶴!!」
しんみりとした好い雰囲気になった水希と八丈の間に、狸の和尚がペチペチと手を叩きながらまたしても割り込んできた。すこし潤んでいた瞳から涙が引っ込んで、水希がくすくすと笑い出す。
焼うどんと、お祝いのビールを出してもらって一年ぶりの楽しい時間が戻ってくる。去年と違うのは隣の八丈が、水希の手を握っている事だ。付喪神達がキャアキャアとはしゃぎ始め、三味線から手が生えてきて自分の腹をテンテンとかき鳴らしている。酒の入った徳利にまで目鼻がついて、客達に酒を注ぎ始めた。
そっと手の温もりに力が入る。
水希が重なった手の主に視線を向けると、八丈が厳つい顔に信じられないくらい柔らかな笑みを浮かべている。千年を超える時間を、お前のような女が現れるのを待っていた……と、そんな風に囁いてくれる。
妖怪達がやんややんやと冷やかす声が聞こえて、八丈の顔が近付いてくる。
水希もそれを受け入れるために瞳を閉じた。
****
その不思議な酒場は、夏の間だけ開店する。
人に化けて生活している人ならざるもの、そうしたもの達が、暑い夏の間、世の世知辛さを肴に美味い酒を飲む。彼らは暑い夏の夜、この酒場で化けの皮を脱いで、真の姿で酒を楽しむのだ。酒の席だ。偽りの姿で酔うなんて面白くもなんともない。
誰も目を止めぬような雑踏の端に、暑い夏の夜、ふと目を向けてみると、猫だけが知っていそうな脇道を見つける事があるだろう。
そこを進めば、その先に地下に下りる階段が待っているかもしれない。洋風の重厚な木の扉には不似合いな毛筆でこの文字が書かれていたら、勇気を持って扉を開けてみるといい。妖怪達が、共に酩酊を楽しもうと待っている。
迷うことはない。今日もその扉にはこう書かれている。
妖怪酒場
ゑいぎやうちう