ゆだち

「雨が降るな」

飴色に磨かれた一枚板のカウンターに座り、八丈はちらりと扉に視線をやって、カラコロとグラスの氷を鳴らす。

開けたばかりの酒場は、賑わうにはまだ早い時間だ。客はいつもの狸一人で、八丈から二つ離れた席で新聞を読んでいたのだが、八丈の独り言に髭をぴくりと動かした。

秦野も、ふんふんと尖った狐の鼻をひくつかせる。

「でも今日は晴れてますよ?」

「晴れてても、雨を降らせることは出来るさ」

「八丈さんはさすがですね」

狐の手を口許に宛てて、くふふと笑った。

秦野の言葉には何も返さず、八丈はグラスに口を付ける。まだ酒は入れていない。グラスの中身は水だ。マスターの貴船がこだわって仕入れてきた水は、八丈の口にも美味く感じた。

身体に残っている神通力が知らせる。これから降らせる雨は、兄貴共の仕業だろう。八丈が石から抜け出した時は、必ずそれと知った八丈の7人の兄達が「早く戻れ」とにわか雨を降らせるのだ。

勿論、そうでなくとも蛇神である八丈には、雨の予測など容易い事ではあるが。

「そういや、あの嬢ちゃんがまた傘忘れたーって濡れて飛んでくるんじゃねえか?」

ひっひと笑ったのは狸の和尚だ。妖怪の中ではそれなりに力の強い、……恐らく、貴船と変わらぬくらいの時代を生きている妖怪だろう……化け狸が、いつのまにか新聞から顔を上げて秦野に肩をすくめている。

「水希さんですか? しっかりしてるように見えて、すぐ折りたたみ傘とか忘れちゃいますよね」

「んで、あいつが忘れた時に限って雨降るんだよな」

話題に上がっているのは、最近この酒場に来るようになった人間の娘の話だろう。妖怪酒場に人間が一人で来るのは珍しい。というよりも滅多にない事だ。毎日酒場にいる八丈も何度か見かけている。人間のくせに、異形の妖怪とも普通に話す希有な娘だった。

普通、人間には妖怪の見えるものと見えないものが居る。そしてさらに、妖怪を異と捉えるものとそうでないものがいる。もともと妖怪のような生き物が見えず、交わりや精神の交流によって見えるようになるものもいるが、そのような関わりも無しに妖怪が見え、なおかつその力を異形と捉えぬのは、一種の才能であり能力といえる。昔はそうしたものが、そうした生業についたものだった。

あの娘は一見してそのような生業の者には見えず、その辺りにいる娘と同じ風に見えた。もっともその辺りに居るような娘と知り合いになったことなどない八丈には、その意味もよくは分からなかったが。

「新しい靴を買ったといってましたから、慌てて転ばなければいいのですが」

マスターの貴船がコツコツとアイスピックで氷を砕きながら、ふと、思い出したような口調でつぶやく。「人間の女の子って、すっごくほっそい靴履いてますよね、毎年びっくりしますよ、僕」などと秦野が答えていて、やけにそれが耳に残った。

あの娘が、硬い道路の上で転んだり雨に降られたりすると、どうなるのだろう。

別段自分に関係があるわけではないのに、八丈は舌打ちして立ち上がる。貴船をちらりと見ると、八丈の蛇の瞳と目が合った。貴船は一度苦笑して、瞳を閉じる。しばし瞑目して、肩をすくめた。

「これは偶然。次の電車で着くようですね」

****

その日に迎えに行ったのは気まぐれだった。しかし、雨の降る傘の中、共に居る空気があまりに心地が良くて、その後八丈は何度も娘を迎えに行った。その年の天気は不安定で雨の日は多く、娘もさすがに傘を持ち歩いていたが、それでも八丈は迎えに行った。理由は特に無い。ただ、雨の匂いの中にいる娘を、自分の領域テリトリーに囲いたいと思った。それだけだ。

娘……水希という。

水希自身は何とも思っていないようだが、異形を前にして異形を感じないのは希有な力だ。八丈が黒蛇であることもすぐに受け入れた。

話すことと言えば、商店街のどこに美味しい店ができたとか、仕事で面白い事があったとか、狸の和尚とゲームやって負けたとか、そういう話ばかりだ。時々八丈が、自分が現出したときの話やそのときに見聞した話をしてやると、嬉しそうにする様子は目を離せなかった。

そうして、話題が交錯するのもまた心地がいい。正直に言えば、自分の見聞きしていない時代の話を聞くのは、気分のいいものではなかったのだ。自分の不自由さばかりが目について、それを面白いと感じる余裕などなかった。もちろん、石に力を封じ、兄とともに界に戻らない事を選んだのは自分だ。しかし戻りたくないわけでもなければ自由になりたくないわけでもない。

ただ、界に戻れば千年経ってもいまだに新婚気分の兄貴共がいるのだからたまったものではなく、それらに対してこれまた不愉快な気分になる自分がつまらず、この世にとどまっているだけにすぎない。

だが、水希の話だけは違う。聞くのは楽しく、飽きなかった。

神に向けて話す人間の言葉は、大概が正なり負なりの願いだが、水希の言葉はそのどれでもない。すべてが小さくて、愛らしい。水希の話す、しゃれたカフェとやらの話も、職場の話も、テレビとやらの話も、インターネットで見つけた可愛い動画の話も、そのどれもが水希にとっての普通で、八丈にとっては新鮮で面白い。

それは恐らく水希が話し、水希とともに聞いているからだろう。出来ればこれからの全ても、水希と共に見たいと感じる。

神の瞳を覗き込む不躾な黒い煌めきを、八丈は不愉快には思わない。他の人間ならば、その不躾さに苛立つというのに。

八丈は正確にいえば妖怪ではない。今は力を制限されているが、普段は住まう界を異にする存在で、この地では「神」とされる者である。そうした者達の中でも八丈の力は「蛇」の力で、瞳と舌、そして鱗は魔力の体現だ。

それなのに、水希は人を惑わす神の瞳をひょいと覗き込んで、逆に八丈を惑わしていく。人間の娘の黒い瞳など珍しいものでもないはずなのに、その眼差しを味わいたい衝動に駆られた。

その衝動は、同時に焦りに変わる。

残された神通力は僅かしかなく、水希と共に居られるのは、八丈の生きてきた時間に比べるとあまりに一瞬だ。そして、次に水希と会えるまでの時間は、水希にとっては随分と長い時間になるだろう。

水希を欲しいと思う男は、自分だけではないはずで、共に居ない時間が長くなれば、奪われる可能性は高くなる。

別れの夜が近くなり、八丈は水希を己の腕の中に閉じ込めた。卑怯な手だとは分かっている。だが、水希に隙を与える優しさはなかった。

千年だ。

誰かを普通に好くという感情を、八丈は千年待った。同じ人間は二度と現れない、八丈はそれを知っている。

迷っていた水希の心を、八丈は迷わず引き寄せる。

水希の身体を奪い自分を埋め、自分を待つ事を強要した。

****

自惚れでなければ。

手を離した1年を、水希は大層つらい思いをしたに違いなかった。そしてまた、八丈にとっても身悶えるような1年だった。いつもならば目覚めぬ時を一瞬と感じてやり過ごす事が出来るのに、この1年はそうした力も働かなかった。ただ、ひたすら水希に会えぬ時を待ち続ける。

我慢など出来ない。するつもりもない。

水希は自分の嫁だ。

一年ぶりに再会した夜、酒場の妖怪どもがようやく水希と八丈を離したのは随分遅くなってからで、終盤は、早く帰りたくてジリジリしている八丈を、貴船や狸どもがニヤニヤしながら眺めるという不本意な時間だった。まだ話足りなさそうな水希を半ば攫うように部屋に連れてきて、八丈はようやく水希に触れた。

「水希」

「待って、ん……っ」

部屋に入った途端、電気も付けずに壁に押し付ける。身体全てで水希を押さえつけ、額と頬を重ねるように顔を近付け、隙間を埋めるように唇を重ねる。

重なり合い、塞ぎ合った唇からは水の音も聞こえて来ない。ただ、粘ついた舌と唾液は、互いの口腔内で絡まり合った。八丈の長い舌を絡め入れると、水希がおずおずとそれに触れてくる。ぬるぬると触れ合わせながら、何度も唇の角度を変えた。

どれくらいそうした触れ合いを続けていたか。

ん、という吐息が聞こえて、八丈は少し唇を離した。

「名前を呼んでくれよ、水希」

「は……」

「水希」

「八丈さ、」

好いた女の声というのは、男の身体を震わせる。八丈は再び水希の唇をふさぎ、今度は少し唇を緩めて、吐息と唾液を楽しんだ。口腔内を舌で探れば水希の腰に力が入る。八丈は水希の背中に腕を回して自身も腰を押し付けた。

まるで挿入の真似事のように揺らすと、硬い熱が水希の身体に伝わるのだろう。唇を離して覗き込むと、暗い部屋の中で八丈の夜目に潤んだ瞳が映る。

肌の香りに我慢出来ず、水希の瞼に唇を寄せた。思わず閉ざした水希の瞼に、小さく舌を出して軽く触れる。瞼、目尻、下瞼……と、チロチロと順を追って繊細に舐めていると、大切な宝物を口に含んでいるような独特の満足感に襲われた。美しく甘い砂糖菓子を、少しずつ溶かして食べるような心持ちがする。

もっと味わいたくなって、八丈は水希のスカートの中に手を入れた。しかしいくつかの布に阻まれて、容易く手の指は届かない。

「……邪魔だな」

今の女の服装はよく分からない。履いている下着の中に無理矢理手を入れて、一気に目的の場所に触れた。

「……あっ……!」

小さく膨れた箇所が指に触れたが、そこは掠めるように通り過ぎ、もっと奥を目指して軽くさぐる。指先にぬめりが触れ、八丈は満足の息を吐いた。そのまま何も言わずに、くつりと奥に指を挿れる。

びくんと大きく水希の身体が震え、それを受け止めるように八丈は抱き締める腕を強くした。水希の腰が逃げを打たぬようにきつく抱えて、じわじわと指を動かし始める。指の根元まで蜜で濡れ、触れている手にまで雫が触れた。

女が濡れる様は男を興奮させる。柔らかく溶けるこの中に、自分を挿れてしまいたい。

「ふ、……」

八丈は水希の身体をきつく抱いて、じわりと指を動かす。動かせば動かすほど奥が濡れ、ぴちゃぴちゃと激しい水音が聞こえはじめた。

「あ……んあ……」

水希も八丈にすがりついて、細い手が背中に回される。八丈は一度指を抜き、既に硬くなり軋んでいた己の熱を取り出した。

半ば強引に水希の下着を下ろして、八丈のものを宛てがう。

正面に抱き合ったまま水希の太ももの片方を持ち上げ、身体を押し上げるように近付けると、先の部分がぬるりと入り込んだ。大きな段差をじっくりと通り過ぎると、水希と八丈が同時に思わず声をあげる。

立ったまま、それほど大きな抽動は出来ない。それでも揺さぶるように動かすと、腹から込み上げるような愉悦がくる。しかしこのまま一気に動かしたい衝動をなんとか堪え、八丈は水希から引き抜いた。

「……は、ちじょうさん……?」

止まった愉悦に水希の声が不安げに揺れた。もちろん、八丈は止めた訳ではない。

「悪い。久しぶりのお前の身体なのに、こんなところで抱けねえよな」

ぎゅ、と水希が八丈の背に腕を回す。か弱い女の腕が、八丈の身体を柔らかく締め付ける心地は温かい。八丈も一度その身体を抱き締めると、ひょいと横抱きに抱えた。

「わっ」

急に我に返ったような水希の声に、く、と笑う。

「それに生半可には抱いてやれん」

いまだ電気の付いてない部屋を横切り、奥にある寝台へと連れて行く。水希の身体をそっと下ろすと、八丈はまず自身の着ている服を緩めた。

水希は今日から2日間休みのはずだ。

夏の夜は短いが、1日の長さは変わらない。

****

「あ、ん……っ、八丈さ、ん……」

「は、あ、水希…っ、く」

突っ込みたくて仕方が無いなど、どれだけ盛りのついた若造めいたことを言っているのか。それでも寝台に寝かせ服を脱がせると、触れて解かしてやる余裕など無くなってしまった。

足を開かせて、水希の中に入り込む。

解かす余裕など無い……と思っていたが、水希のそこはやわやわと八丈を受け入れた。一気に挿れずに水希の表情を伺うと、泣きそうな表情で八丈を見上げ、腕を伸ばして抱擁を強請る。

衝動が一瞬収まり、愛しみが込み上げた。

背中に腕を回して抱き寄せると、身体が近付き挿入が深くなる。全てが包み込まれる至福を堪えると、途端に最奥に引き込まれた。

「っく、待て水希っ……」

「あ、あ、八丈さ、ん……」

水希が八丈の腰に手を回し、強く引き寄せたのだ。予測していなかったタイミングに、持っていかれそうになってわずかに焦る。同時に、触れ合いたいと思う気持ちが同じだと知れて、手加減しようとしていた理性も切れた。

ギリギリまで引き抜いて、がつりと奥を突く。

粘膜がまとわりつき、柔らかさにキツく包まれる感触が堪らない。ゆっくりと何度か大きな往復を重ねて、根元から先端まで、くまなく味わう。

水希の腰を持ち上げて少し角度を変えて内膜を突くと、組み敷いている水希の喉から、ひくりと嗚咽にもにた吐息が零れた。今度は出し挿れを抑えて、膣内なかを何度も重く擦った。何か掴むものをと彷徨う水希の手を捉え、指を繋げて握ってやる。

背中を掬って身体を起こさせ、八丈の太腿を跨がせる。

「は、深いな、これ……は……っ!」

「やっ、あっ」

座った姿勢で向き合うと、水希の重さで深くつながる。揺れる胸を口に含み、触れた突起を舌で掬い上げる。硬い弾力を舌で転がすと、呼応するように膣奥おくが幾度も収縮してあまりに心地がいい。八丈は腰を掴んで動きを封じ、幾度も水希の身体を揺らした。深く貫いた身体は水希が逃げる事を許さず、縋り付いているのは水希なのか八丈なのか分からない。

高まっていくのが分かる。

自分だけではなく、抱いている水希の身体もまた同じように溶けていく。いや、溶けているのか、凝縮されているのか。

「……っく、水希……!」

「あ、ああ……八丈さっ……ん……」

高鳴りは熱い飛沫と共に唐突に解けた。晴れ空に雷が落ちたような激しさを感じ、その後にしとしとと雨が降り出すように、愉悦が落ち着いて行く。

「水希……」

だが激しく吐き出し、惚けたような時間が来ても、八丈のそれは萎えずに水希の身体に残ったままだ。水希の身体を支えている自分の腕を見ると、興奮のあまり黒い鱗のような紋様が浮かんでいる。

鱗がざわめくような感覚だ。人間で言えば、鳥肌が立つ……とでもいうのだろうか。腹の下からぞくぞくと、えも言われぬ悦が競り上がってくる。

「八丈さん……」

「ああ」

八丈は一度引き抜くと、水希の身体をうつ伏せに寝かせる。

今度は水希の背中に胸板を合わせるようにぴたりと重なり、後ろから挿れて抱き締めた。少し横に向かせて互い違いに足を絡ませ、挿入を深くする。

「ん……あ……」

水希の身体はこちらの方が楽なはずだ。そして八丈もまた、腕を足を水希に絡み付かせる事ができる。

「水希」

身体を繋げたまま、ぺろりと水希の耳を舐める。

今度はじっくりと、絡み付いたまま動かし始めた。

****

途中で水希を連れて風呂を使い、それからまたゆっくりと身体を繋げて、2人で一日中寝台で微睡むのは至福の時間だ。その間ずっと八丈は水希の身体に手と足を回して離さなかった。時々、目尻や耳元をちろりと舌で味わって、その度にくすぐったそうに擦り寄ってくる温もりに安堵して目を閉じる。

もそもそと水希の髪が八丈の顎をくすぐる。

覗き込むと、寝ていたと思っていた黒い瞳が、じっと八丈を見つめていた。

「起きてたのかよ」

「ん」

「休みなんだろ、もう少し眠りゃいい」

「うん」

頭を撫でてやると、ぎゅ、と甘えるように八丈の胸に頬を擦り寄せてきた。

「どうした?」

「目が覚めて、八丈さんがいるの、うれしい」

うとうとと眠たげな声は、幸せな証拠だ。回した腕をするりと動かし、水希の身体の全てを撫ぜる。

「俺もだ」

「八丈さんも?」

「これからは、お前を一人にしないで済む」

最後に水希を抱いた夜、頬に涙を流したままの水希を置いていかねばならないのは、まるで身を割く思いだった。むしろこの身を割いてでも、水希を抱いていたかった。ようやく見つけ、ようやく思いを通じ合わせたこの蛇神が好いた女であるのに、泣かせたまま一人にせねばならぬなど、……だが、そうなると分かっていても水希を選び、捕らえたのはこの自分だ。

もうそのような真似は二度とするまい。

差し込む陽の光に水の香りが混じる。空の高いところで雷の鳴る気配を感じた。見れば再び肌がざわめき、所々に入れ墨のように黒い鱗が浮かんでいる。

八丈は一度身体を起こすと少し開いていた窓のカーテンを完全に閉めて、再び水希を抱き直した。

そういえば兄どもにもまだ水希を紹介していないし、あれらのことだからすぐに見に来たがるだろう。人間としてやらねばならないことはたくさんある。だが、今は邪魔してくれるな。もう少し、水希と2人きりで過ごすという贅沢を楽しみたい。

蛇のように絡み付いて、腕の中に水希を閉じ込める。

夏が来て、それが終わっても、2人の季節は終わらない。